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ゆっくりとおとなになりなさい

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 足元に放り投げてあった鞄から携帯電話を取り出してアドレス帳を開く。探し出した番号を伝えると、榛名はちょっと待てと一度言葉を遮って慌ててメモを探しだす。はじめから尋ねるつもりだったのならそれくらい用意をしておけよと軽い苛立ちを感じながら、阿部は電話の向こうで榛名が立てる音を聞いていた。なにをどうしたらメモ一枚探すだけでそんな音が、と聞きたくなるような騒ぎだった。榛名らしい。
『ん、オッケ』
 あらためてもう一度同じ番号を繰り返す。十桁の数字の連なり。これを読み上げれば、強引に始まったこの会話は終わりになるはずだった。会話の終わりを惜しむ気持ちは心の中のどこを探してもなかったし、むしろここで終わりになることを望んでいた。余計な、感情の混じった会話が生まれる前にさっさと切ってしまいたかった。もうたぶん一生、こうしてこの声を間近に聞くことはないんだろうという確信めいた思いに決して寂しさは伴わない。
「――じゃあ、」
『なあ』
 阿部が通話を終わらせようと息を継いだわずかな隙間に、あるべきものが嵌まるような完璧なタイミングで榛名の声が割り込んだ。
『お前んとこって試験休みいつから』
「は?」
『公立なんてどこも一緒だろ。明日から?』
 勢いに押された阿部が、はぁと気の抜けた声で返すと、電話の向こうからは納得したような気配が漏れる。それが何かあんたに関係あるんですか、と阿部が発声する前に、榛名はあっけらかんとした、なのに不思議と深い響きのする声で、
『オレ水曜にシニア行くから、お前も来いよ』と言って半呼吸分だけ黙った。
 阿部はその瞬間自分がなにを言われたのかわからなかった。一瞬後に理解してからも、なんと答えたらいいのかわからなかった。黙ってしまったのはそのせいで、決して了承したからではなかった。それなのに榛名は阿部の返事も待たずに続く言葉を滑り込ませる。
『んじゃ、五時に戸田の駅んとこな』
 遅れんなよ、とからかいを含んだ声に我に返った。
「行くわけないでしょう。なに言って――!」
『なんかあったら連絡しろ』
「ちょっ、勝手に!」
 咳き込んで怒鳴った先から返ったのは、夢の終わりのような短い電子音ばかりだ。繰り返す無表情な音を耳からはがして、阿部は呆然と立ち竦んだ。先ほどまでの騒々しさを失った子機が、手の中で温く、重かった。
「なに考えてんだよ……」
 手のひらを瞼に押し付ける。指先に触れた前髪は、まだ少し湿っている。それぐらいのわずかな時間だったのにもかかわらず、阿部は長い時間を費やしたような倦怠感を覚えていた。目の奥が重い。鮮やかすぎる光に眩んだ目に色が戻ってくるときのような、鈍い痛みが瞼のずっと奥のほうにある。蛍光灯の冷たい光がひどく煩わしかった。勝手なことを言い連ねて、そして勝手に断ち切られた会話とも呼べないものの断片が浮かんでは消えた。
お前も来いよ、と変わらない声は言った。榛名の口調は受話器越しでもはっきりとわかるほど断定的なものだった。それは有無を言わさず命じたからというよりは、断られることを意識していないせいなのだということを、阿部は経験で知っていた。
 そうだ、そういう人だった。
 榛名は何も変わっていなかった。自分が切り捨てたあのままの榛名だった。不思議と安堵に近い気持ちでそれを思う自分を見つけて、阿部は素直な驚きを感じた。榛名のああいう独りよがりな部分に、怒りや悲しみや憤りを感じることはもうすでに慣れた感情の動きだったけれど、そこに安堵が入ってくる理由がわからない。塗り重ねられた同系の色の中に、突然間逆の色合いが浮かび上がったのを見たような戸惑いがある。
 掴みきれない感情の破片を振り切るように阿部は軽く頭を振った。水気の失われはじめた髪の先がぱさぱさと乾いた音を立てる。ふと上げた視線の先で鏡に映っていたのはいつも通りの自分の顔だった。重苦しく圧迫される感覚は今は頭の芯にほんの少し残っているだけで、そう置かずに消えていくほどのものでしかなくなっていた。さざ波立っていた心臓の奥は、いつも通りに凪いできている。
 出なければよかったのかもしれない。話している間にも一度辿り着いた結論がまた脳裏をよぎる。はじめに母親から受話器を手渡されたときに切ってしまうとか、そうでなくても無理やり会話を断ち切ることはできたはずだった。
 でも、あの瞬間は出なければいけないような気がしたのだ。
 そうあるべきだと思った。なぜかと問われても明確な理由は言えなかったけれど。
 榛名のことになると曖昧なことばかりになる。結果に結びつく原因はいつも榛名というブラックボックスの中だ。そういえば、中間をすっ飛ばして結論だけを示すのは榛名の常套手段だということを思い出し、少し嫌な気持ちになる。知らず知らずのうちに手の内に絡めとられたような不快感が残った。実際は榛名にそんな考えがあるはずもない。あれは、ただ物事を言葉に置き換えることができない動物だというだけなのだ。
 それはともかく、と阿部は鏡の中の自分から目を逸らして唇を噛んだ。ともかくあの勝手な約束への答えを出さなくてはならなず、こちらは簡単に見つかった。すべてが阿部に委ねられているものならば答えを出すのはたやすい。
 約束――実際には約束にもなっていない一方的な指定のことは、今この瞬間に忘れる。胸の内でそう決めて阿部は顔を上げた。
 リビングに受話器を返しに行くと、流しに立った後姿の母親がちらりと視線を流した。
「モトキくん、なんだって」
「うん」
 食器が触れる音に紛れた、返事になっていない答えにも、母親は特別な追求をすることなく背を向ける。
「こんなに早く帰ってくるなら連絡くらいしなさいよ。夕飯は?」
「食う。先に風呂」
「入るなら早く入ってきて。すぐ夕飯できるから」
 急かされる形でその場から離れようとした阿部の背に、ほんのついでのような調子で声が重ねられた。
「彼、プロになるんだってね」
 ああ、そういえばそうだった。話している間、そのことは不思議なほどさっぱりと頭の中から抜けていた。榛名もそのことを一言も話さなかった。部室に広げられた新聞に載っていたという名前が、さっき電話越しにいた人と繋がるのだということが阿部には受け入れがたかった。プロになれるような選ばれた人種が住む遥か遠い場所からではなくて、二年半前に別れたあのグラウンドから、時間を飛び越えてかかってきた電話だといわれた方がずっと納得がいくような気がした。でも実際にはそのどちらも等しく遠い。
 そこまで思って、阿部は家に入った瞬間に聞こえた「おめでとう」の意味にやっと思い至った。たぶん、祝いの言葉を言ってしかるべき場面だったのだ。もう二度と会いたくなく、声を聞く気もない相手だったけれど、榛名が真剣な姿勢でプロを目指していたことは知っていた。方法も方針も感情もまるで理解できない相手だったけれど、あの姿勢だけは評価してもいいと思っていたのだから。