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ゆっくりとおとなになりなさい

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 向かい風に抵抗しながらペダルを踏み続けることがこんなにきついことだと知っていたら、阿部と栄口は電車で帰ることを選んでいたと思う。はじめこそ風に対して悪態も吐いていたが、二十分と経たないうちに二人は無言になってひたすら足を動かした。時にハンドルを取られそうになるほどの風は、冗談じゃなく飛ばされてしまうのではないかと危惧したくなるものだった。いつもの場所で栄口と別れた後は、歩いた方が早いくらいのとろとろしたスピードで阿部は嵐の道を走った。
「あらぁ、おめでとう」
 やっとのことで辿り着いた玄関を開けた時、飛び込んできたのは母親の声だった。声のトーンがいつもより高い。声の受け手は電話の向こうにいるらしかった。こんな嵐の日にかけている電話のなにがめでたいのか阿部にはさっぱりわからない。大方花井の母親あたりだろう。あの辺の父母会ネットワークは自分たちが思っているよりもずっと強力らしくって、思ってもみない情報が親から親に筒抜けになっていることがある。あれのせいで阿部は、会ったこともない花井の妹が隣のクラスのダレソレに告白されたとか、田島の上の兄貴の嫁がどうのだのという話に詳しくなりつつあった。阿部自身はああそうと流し聞きしているからいいのだけど、同じように自分の話もあっちこっちに垂れ流されているのかと思うと正直うんざりする。
 リビングから聞こえるテレビの音と母親の声は同じくらい弾んでいた。話はすぐ終りそうもない。靴を脱ぎながら一応ちいさくただいまと言って、その足で脱衣所に向かう。風に逆らって自転車を漕いでくる間にまた汗ばんだ顔を洗っていると、背後からスリッパの音が近づいてきた。
「タカ」
 水滴を切って振り返った先で母親がこちらをのぞきこんでいる。差し出された手には受話器が握られていた。
「あに」
「電話。あんたに」
「はぁ?」
 だって、あんたさっきまで自分が盛り上がってただろう。顰めた眉の理由を知ってか知らずか、母親は急かすように子機を差し出す。阿部は手を伸ばしかけ、指先がまだ雫を含んでいることに気付き手を止めた。シャツの胸元に手を擦りつけながら誰と訊く。どうせ花井あたりだろう。それか栄口か。さっきちらりと耳に入った「おめでとう」の言葉が引っかかったけれど、わざわざ家にかけるまでして自分に連絡をしてくる人間はその二人くらいしか思いつかなかった。携帯の電源切れてたっけ、といぶかしみながら阿部はそちらに手を伸ばした。しかし、漠然とした予想は、指先が受話器に触れるのと同じタイミングであっさりと覆される。
「モトキくん」
「え」
 出しかけた手を反射的に引く。
 熱いものに触れかけた時のようなちりちりとした感触が指先に残った。
「ほら、シニアで一緒だった」
 そんなこと言われなくてもわかる。十六年分の知り合いの中にハルナだのモトキだのという芸名みたいな名前の人間がそうそういるはずもない。モトキと言われて浮かび上がる顔は、ただ一人きりだった。名前の響きも行動も容姿も直線的な人。
 わからないのは、どうして今、母親の口からその名前が出てくるのかというとこだ。数年前なら――自分とあいつがまだバッテリーだなんて呼ばれていた頃なら、なにかの拍子にその名前が出ることもあったけれど。なんで、今更。
「用は」
 無関心を装った声はほんの少しだけ硬く上擦る。それは気づかれないくらい微かで、それでいて阿部自身にはしっかりと判ってしまう動揺だった。心の中で舌打ちをして、阿部は視線を逸らす。頭の動きにつれて、濡れて下がった前髪が視界を掠めた。
「さあ。聞いてないけど」
「いないって言っといて」
 伏せた目をさ迷わせると、締めの甘かった蛇口から細く水の帯が流れるのが目に入った。苛々と伸ばした手でそこを不要なほどにきつく締める。その間に、どこか遠い場所と繋がっているその子機をつれて早く出て行ってほしいと願ったのに、母親は立ち去るどころか逆に腕を差し伸ばした。
「やあよ、私今帰ってきたって言っちゃったもの。そんなの自分で言えば」
「いい」
「なに言ってんの。ほら」
 こちらの反論も返事も聞こうとせず、手の中身と言葉を一方的に押し付けて目の前で引き戸が閉まる。ぴしゃりと人の声から隔離されたちいさな空間の中で、今まで聞こえもしなかった保留音がやけに大きく聞こえだした。持て余した手の中身は調子の外れた音程で明るい曲調を奏でる。ここにいると強く確かに主張する姿は、電話線の向こう側にいるという人を思わせた。能天気な旋律を断ち切るためのボタンは二つ。しばらく迷って、阿部はその一つを押した。
「……もしもし」
『おっせーよ!』
 瞬間、目眩がした。
 最後に話をしたのはもうずいぶんと前だった。一方的に見かけたことさえ記憶からは遠い。電話で話したことなんていうと、それこそ中二あたりまでさかのぼらねばならないはずだった。それなのに、まるで今日の練習の続きのような様子で榛名は声を投げつけた。距離も時間もすべて歪めて、同じグラウンドにいたあの頃とまったく同じ強さで。
『おい、聞いてんのか!』
「……そんなに怒鳴らなくても聞こえます」
 溜め息と一緒に唇に乗った言葉は、乾いた響きで通話口にぶつかる。榛名は少しだけ黙り、喉の奥を震わせた。
『相変わらずかわいくねぇなあ』
 状況を楽しんでいるような声色を阿部はよく知っていた。なんで、と口に出さずに思って阿部は受話器を強く握りこんだ。なんでこいつはこんな風に笑ってしまえるんだろう。やめてほしい、と思う。その声で、榛名は記憶をこじ開けるのだ。肩をすくめて顔をくしゃくしゃにする榛名の笑い方や、そうやって笑うときは決まって榛名の機嫌がいいことや、十八,四四メートル先にあったシルエットや、埃っぽいグラウンドに吹く風や、それから、思い出したくもないトイレのタイルの色や――。そんなものがすべて溢れそうになって阿部は一度まぶたを閉じた。 通話ボタンなど押さずに、その隣に並ぶ「切」と書かれたボタンを押せばよかった。こうなるのは薄々わかっていただろうと訴える内側からの声を押し殺して、阿部は耳に直接掛かるような空気の振るえを聞いた。
「なんの用ですか」
 しつこく続く笑い声を断ち切って強い声を出すと、榛名は思い出したようにああ、そうだと呟いて笑いを引っ込める。
『うん、お前さあ』
 当然の権利のように「お前」と呼んだ声が、懐かしい名前を告げた。二人がいたチームを率いていた監督の名だった。いつも困ったような表情をしていた温厚な横顔を覚えている。
『あの人の連絡先わかるか』
「それだけっすか」
『そー』
 おかしな感じがする。なんなんだろう。話し方も呼びかける方法も、そして話の内容さえも、まるで中学の時に戻ったようだった。ただ、阿部の感じる気持ちだけがあの頃と遠い。
「ちょっと待ってください」