菊香と白露
九日の朝、目を覚まして顔を洗い、身仕舞いをして部屋に戻ると、昨夜を共に過ごした久藤が、何か白いものを手にしてこちらへ向かってくるところだった。
ひとつ寝床で眠って目覚めた朝、彼は先に顔を洗って居間にいたはずだったのだが、どうしてか庭の濡れ縁の方から戻ってくる。
濡れ縁には、昨日久藤が明日は重陽だからと持ってきた菊の鉢が置いてあるはずだった。彼の祖父が丹精して育てたものを持たせてくれたものらしい。
通常は菊の開花はもう少し遅い時期になるのだが、それを重陽の行事があるというので開花調整をして咲かせた花とのことで、たいそう立派な大菊の三本仕立てが、今を見ごろと咲き誇っていた。
「久藤くん、鉢がどうかしましたか? 風で倒れたりしていたとか?」
案じて問うと、久藤は笑って首を振った。
「いいえ。実はゆうべ、これを用意していたんです」
そう云って、久藤は望に、手にしていたものを示した。
ふわふわと柔らかい、真っ白な繊維質の塊──綿。質感からして、絹糸から作られた真綿であると知れた。
そういえば昨夜交代で風呂を使う間、彼がなにやら縁側の方でごそごそしていた気がする。特に気にも留めなかったのだが、おそらくこれを支度していたのだろう。
「着せ綿──ですね」
九月九日の重陽の節句の前日、菊の花に真綿を被せて一晩置き、菊の香と夜露を含んだ綿で顔や体を拭って不老長命を願うという。
「はい。ちゃんと香りも夜露も移っていますよ」
にこりと笑って差し出される真綿に顔を寄せてみれば、綿は確かにしっとりと湿っていて、ふわりと立ち上る菊の花の香りも感じられた。
「ほんとうですね。──驚きました。久藤くんのお宅は、毎年着せ綿をするんですか?」
着せ綿の風習を知ってはいても、そうそう一般家庭で実践するようなものではないだろう。彼の祖父が余程古風なのだろうか。そう思って問うてみると、久藤はいいえ、と首を振った。
「いつもはこんなことしませんよ。本で読んで知っていただけです。じいちゃんが丁度良い日に菊の鉢をくれたから、思いついて準備してみたんです」
久藤の祖父が、昨夜彼が望の家へ行くと聞いて、いつも世話になっているから一鉢持っていくと良いと持たせてくれたのだという。それで、古典によく出てくる着せ綿のことに思い至ったと云うことだった。
「先生が、いつまでも健やかでいられるように、って」
にこりと笑って露を含んだ綿を差し出されて、望は目を瞬かせた。
「私──に、ですか?」
「もちろんです」
首を傾げて問うと、久藤の笑みはますます深くなる。
「はい、どうぞ」
そう云って露含みの真綿を差し出す久藤に、望はいえいえと首を振った。
「私はそんなことしていただくほどのことは……」
不老だの長寿だのという賑々しい言葉はどうにも自分に似つかわしくない。思わず後じさってしまう望に、久藤はくすりと笑みを零して肩を竦めた。
「だめです。せっかく支度したんですから、やってください。というか座ってください。僕がしてあげます」
「え──」
そう云って袖を掴まれ、じっと目を見つめて指図されると、望にはなし崩し的に彼に従ってしまうような素地が出来てしまっている。
「ね? 座って」
「……はい」
思わず大人しくその場にぺたんと座り込んで、久藤も向かい合わせに座ってにこにこと笑いながら膝立ちににじり寄ってくるのを待つしかなくなってしまう。
「動かないでくださいね──」
柔らかく囁きながら、久藤は手にした綿をそっと望の顔の方へ差し出してくる。
ひやりとした、水気を含んだ綿の感触が頬に触れるのに、望は思わず目を瞑った。
「ちょっと冷たいですか? 大丈夫?」
「は──はい」
思わず顔を強張らせてしまった望を気遣う声が掛けられたのへ、小さく頷いて返すと、頬にそっと押し当てられた綿が、すっと頬骨の上を滑っていくのが感触で分かった。
ふわりと、仄かな菊の香が間近に聞こえる。
瞑っていた目を開こうとそっと瞼を上げかけたけれど、思ったより近くに久藤の顔があって、真剣な表情で望を見つめながら望の顔へ綿を押し当てているから、望はなんとなくまた目を伏せてしまった。
多分やたらに神妙な顔をしてしまっているだろう望に、久藤が微かな笑み声を零している。
そうして、久藤はひんやりと湿った綿で、望の頬をするすると撫で続けていく。柔らかい綿の感触が、左右の頬の上を滑り、輪郭を辿って、すっと離れて菊の香を残しながら、今度は額をひたひたと湿す。
瞑った瞼の上にも、そっと柔らかい綿を押し当てられて、望はぴくんと瞼を震えさせた。
久藤の手にした綿はゆるゆると、触れるや触れずやの力でそっと顔中を拭っていく。
それはなんだか奇妙にくすぐったくて、どうしていいのか分からないような心持ちになる感触だった。
両の瞼の上をそっと押さえて、これでどうやら望の顔のパーツはひととおり菊の露の真綿に撫でられたことになる。
瞼の上からそっと綿の質感が離れて、これでお仕舞いだろうと思ったところに、すうっと頬の上を撫で下ろすような感触が続いた。
「ん……っ」
そうして微かに開いていた唇を、しっとりとした綿の冷たさに覆われて、望は思わず小さな声を上げた。ぞくりとした感覚が背筋を伝い下りるような気がして、肩がびくりと震える。
「──はい、お仕舞いです」
囁き声でそう云われて、望はそっと瞼を上げる。さっきと変わらない近い場所に久藤の顔があって、彼はいつもの優しい笑みで、望の顔を覗き込んでいた。
「……先生、顔紅い」
つ、と今度は指先を望の頬に添わせながら、久藤は笑み顔のまま云った。
「そ──それは……」
隠しようもなく、さらに頬が熱くなるのを自覚しながら、望は少し云い差しただけで口籠もった。好き放題に人の顔を真綿で撫で回しておいて、それはなんだか理不尽な物言いに思える。
「久藤くんが──丁寧にしすぎるからです……」
着せ綿の露で顔を拭うのなんて、形ばかりそういう素振りをすればいいだけのはずで、女性が化粧水で肌を整えるかのようにあんなに丁寧に顔中を露で浸さねばならないこともあるまいに。
「だって、先生なんだか気持ちよさそうだったから」
「そ──」
否定も肯定も出来なくて、望は更に言葉を失った。
心地よかった。のだろう。確かに。
柔らかでひんやりとした綿で、やわやわとした力加減で頬や額を撫でられるのは、それが恋仲にある相手の手でされることならば尚、快さであると感じても仕様のないことだと思う。
「で──では、久藤くんにもして差し上げましょうか。久藤くんが持ってきた菊の花なのですから、私ばかりして貰っては申し訳ありませんし」
とりあえず、あられもなく紅潮してしまっている自分の様子から気を逸らせようとそう話を変えると、久藤はいいえ、と首を振った。
「菊の香気を取り入れるなら、僕はちょっと違う方法で」
「どんな……ですか?」
「僕はまだ菊のお酒を頂くわけにはいかないから……」
そう云って、久藤はつっと望の頤の先に指を掛け、軽く掬いあげるようにして望を久藤の方へ向けさせる。
そして、ちょっと息をつく間もないくらいの素早さで──久藤の口接けが望の唇に触れていた。