菊香と白露
「ん……っ」
いつの間にか緩やかに背中に腕が回って抱き寄せられている。触れて、深まって──濡れた温かい感触が口内に入りこみ、しとどな水音を響かせながら、ふたつの吐息が熱く混じり合う。
「くど──くん……」
深く、長く口接けを重ねて、息を継ぐのに少し話した唇の間に、さっき肌に染みこませた菊の香りがふわりと立ち上った。
酔わされそうな甘い香気。
ほっと零した吐息をまた摘むように唇を吸われて、しばらく啄み合ってから、そっと口接けが離れる。
「……菊の香りの移った口接けを──貰いました」
潜めた声で艶めかしくそう云われて、望はまたもや頬に血が上るのを感じた。
菊の香りを宿した夜露は、確かに望の唇にも、久藤の手によってそっと含まれていた。彼は望から、口移しに菊の香を取り込んだのだろう。菊の花を浮かべて香りを移した酒を呑むという、重陽のもう一つの風習の代わりに。
「これでふたりとも菊にあやかることができますね」
柔らかな笑みと一緒にそう云いながら抱き寄せられて、望は紅く火照った頬を隠したくて、久藤の胸に額を押し当てるように体を預けた。
「朝から──あんまりからかわないでください……」
「からかってなんていませんよ」
「私は──そんなに長生きとか健康とか願ったりしてないんですからね……」
人生なんてきっと辛いことばかりで、今は良くてもいずれまた、たったひとりで世の無情さを嘆くことになるはずなのだから。そんな世の中で命ばかり永らえたってなんになろう。
「そう?」
せっかく望の健康を案じて彼が支度してくれたものだというのに、酷く恩知らずなことを云う望の言葉にも、久藤は気を悪くした様子もなく優しく問いかける。
温かな腕が望の背中にするりと回されて、そうして強く、抱きしめられた。
「僕は──先生も僕も健やかでいられて、ふたりでこうして過ごせる時間が少しでも長くなるといいな……って、思っていますよ」
静かな、優しい声で耳元に囁かれて、望は返す言葉を思いつかなくて黙り込んだ。
そんなことに──ほんとうになるだろうか。
彼が支度してくれた真綿に撫でられて、菊の香を纏わせれば。老いが退き、寿命が永らえ、そうしてこんな優しい時間が、その分だけ長く望に訪れるのだろうか。
「──好きです。先生」
押し黙った望の髪を撫でて、そうして頬に柔らかな唇の感触が触れた。
「……はい」
今度はいつものようにそう答えて、望はつと顔を上げる。
「好き──」
溜息のように久藤はまたそんな囁きを望にくれて、その語尾に溶けた彼の呼気は、柔らかな口接けとなって望の唇に触れた。
深く重ねた口接けからは、まだ微かに菊のかおりがして──
長久の安らぎをその香に願った昔の人の心持ちが、望にも何となく分かる気がした。