雨に似ている
雨に似ている
自分はかつて、無力な子供だった―――――――。
熱い炎が、頬に流れた涙を乾かす。
灼焔が全てを焦がし、奪っていく。
生まれ育った荘園も館も、全て飲み込んで。
「……イザーク、……ニコル君と一緒に海に…逃げるのです。そして、これと同じ紋章を持つ船を捜しなさい……」
火を放たれ、焼け始めた森の岩影で仰臥した母エザリアは、いつも肌身離さず首にかけていたコインのペンダントをイザークに手渡した。
「貴方の父に……、ムウ・ラ・フラガに会いに来たと。これを見せて、貴方の名前を名乗りなさい。そうすれば、後は彼の部下が……、貴方達を保護してくれる……」
大地にくったりと四肢を伸ばしていた母の体は、次第に全身を震わせて身を強張らせる。
彼女は二人を庇い、弓兵に背中を散々射抜かれたのだ。
血が大量に流れすぎ、命の灯火が消えかけている。
平和だった、母の小さな領地に、見知らぬ賊が大挙して入り込んできたのは一刻前。
自警団は武器も持てないまま壊滅し、領民達も何もわけのわからぬまま、誰も彼もが己の命をただ守って逃げている。
そんな混乱の最中、領主の子供とはいえ幼い二人を助けてくれるものなどいない。
「……ムウ、……もう一度……、会いたかった……」
目尻の涙とともに、口から幾筋も血泡が零れる。
断末魔の痙攣が襲い、やがて、母の息は止まった。
「嫌だ……、母上死なないで……!!」
「エザリアおばさま!!」
泣いても叫んでも、母は二度と目覚めなかった。
そして、今、眼前で燃えている故郷も現実だ。
(どうして? どうしてこんなことに……!!)
母を埋葬する時間も無かった。
炎はどんどん森を焼き、彼らの背後に迫っている。
「いくぞニコル!!」
「イザーク……、でも……!!」
「貴様はこのまま、何もわからぬまま死ぬ気か!! 俺はごめんだ!!」
彼は涙を拭い、ニコルの手をしっかりと握り締め、歯を食いしばってただひたすらに海に向かって走った。
立ち止まったらもう歩けない。
このまま故郷を焼かれ、母が殺されたのかもわからず、虫けらのようになんて。
死にたくなかった。
海に行けば、父に会える。
彼は何でも知っている。
彼は誰よりも強い。
海に辿りつきさえすれば、全ての疑問が晴れるのだ。海に着きさえすれば!!
イザークが十歳の時だった。
それから7年後。
狼の心臓を、ナイフで突きたてて抉る。
その刃を伝って暖かな血潮がイザークの左腕を濡らすが、彼は構わずにますますナイフを深く食い込ませた。
やがて狼の金色の目はどんよりと濁り、覆い被さっていた四肢もくったりと動かなくなった。執念深く最期までイザークの右肩に食らいついていた獣の顎が、これでやっと外せる。
(ちっ……手間かけさせやがって……)
イザークは灰色の重い荷物を脇に転がすと、大きく息をつき、草の絨毯に仰向けに倒れて手足を伸ばした。
渾身の力を込めての死闘後だ。強張った筋肉をほぐすのに、新芽が出始めた大地は冷たく心地よい。
だが寝転んだ弾みで自分の肩で揃えた銀髪が、汗で顔にへばりついて目を覆う。その気持ち悪い感覚に我慢できず、よせばいいのにうっかりと血まみれの左手でかきあげる。
血色に染まった前髪の隙間から空を覗けば、何時の間にか錆色の雲が太陽の光を遮っているのが見えた。
彼がほっとしたのもつかの間、みるみるイザークの視界がぼやけ、滝の飛沫のような細かい雨が降り始める。
「……ちくしょう。俺にはくつろぐ時間も許されないのか……?」
苦笑まじりの吐息を零すとしぶしぶ立ちあがる。
ねぐらに戻ろうと振り返れば、現在の住処である石造りの塔は、霧雨のおかげで霞がかり、まるで煙に包まれているように見えた。
そう、あの幼き頃に燃えてしまった故郷のように。
(全く……縁起でもない……)
今日に限って酷く辛い昔を連想したのは、何かの予感があったのかもしれない。
イザークが眉を顰めた時、これまた最悪のタイミングで、大地と同じ色の髪を男のように短く切った女が小走りにやってきた。
彼女は自分が濡れそぼるのも構わずに、胸の中にしっかりと乾いたコットンの大きな布を抱いて守っている。
(うわっ、キラ!!)
雨が降ってきたため、自分を迎えに来たつもりの彼女に、イザークはため息をついた。
今後起こる騒動が、手に取るように予想つく。
「なんなのそれ!!」
果たして、彼女はまっしぐらにイザークのもとに来て、そして当然のことながら彼の右肩に飛びかかった。
「見せて!! すぐに手当てしなきゃ!!」
「まて貴様!! やめんか馬鹿者!!」
イザークの静止する間もなく、彼女は問答無用で彼の綿のシャツをびりっと引き裂いてくる。
この暴挙、信じられない。
この自分相手に恐れもひるむこともなく、こんな反応を見せる女はキラ以外いない。だがらこそ、どう対処していいのか解らなくなる。
血で赤黒く染まった布を剥ぎ取られた肩は、狼の牙傷が口型に丸く抉れていた。イザークの白い肉は裂け、裂傷からは血が止め処も無く流れている。
彼女は硬直しているイザークに構わず、右肩をぐいと掴んだ。
「痛ぅ!!」
「痛い? そうだよね……痛いよね……」
「握られりゃ当たり前だろが、この大馬鹿者!!」
「直ぐに手当てしよう!! 今すぐ帰ろう!!」
彼を見上げるキラは、もう大きな紫水晶の目に涙を溜めている。
(怪我した上に子守りか、くそっ)
そう心にため息を押し隠し、イザークは仕留めた狼の手足を、キラに破かれたシャツの破片でくるくる巻いた。
「貴様、獣避けの香木は?」
「……あ……」
彼女が何も持たずに飛び出したのは間違いない。
狼は家族で群れを作る。近くに潜んでいないと断言できない以上、この周辺もまだ危険だ。
「俺の濡れる心配より、自分の命を心配しろ。ったく、好き勝手にほこほこ出歩きやがって、ニコルは止めなかったのか?」
キラはイザークの頭へ、肩まで届く大きな布を被せると、ポンっと手を鳴らした。
「そうそう!! ニコルってば、また風邪ひいちゃって熱が下がらないんだ。僕じゃ解熱剤なんて作れないから……」
みるみる狼狽し、またおろおろと涙ぐみだす。
「イザーク、早く帰ろう。ね」
(……いい加減気づけ、この馬鹿者が!!)
今度こそイザークは呆れ、疲れ果てたため息を吐いた。
ニコルが仮病を使っているのは間違い無いが、毎回騙される彼女も彼女だ。
「獣避けばら撒いてくる。貴様は先に帰っていろ」
「駄目だよ。手当てが先!!」
キラは猛然とイザークの左腕を引っつかんだ。けれどそんな風に女に主導権を握られるなど、彼の矜持が許さない。
「おいキラ。俺を子供扱いするな。犯すぞ!!」
「生娘じゃなくなれば、価値下がるんじゃなかったっけ。いいの? だって僕、まだ大事な金のなる木でしょ?」
「……冗談だ。誰が二十歳過ぎた行き遅れのババアなんか抱くか」
いくらすごんでも、彼女はぼけつつ冷静で態度が変わらない。
自分はかつて、無力な子供だった―――――――。
熱い炎が、頬に流れた涙を乾かす。
灼焔が全てを焦がし、奪っていく。
生まれ育った荘園も館も、全て飲み込んで。
「……イザーク、……ニコル君と一緒に海に…逃げるのです。そして、これと同じ紋章を持つ船を捜しなさい……」
火を放たれ、焼け始めた森の岩影で仰臥した母エザリアは、いつも肌身離さず首にかけていたコインのペンダントをイザークに手渡した。
「貴方の父に……、ムウ・ラ・フラガに会いに来たと。これを見せて、貴方の名前を名乗りなさい。そうすれば、後は彼の部下が……、貴方達を保護してくれる……」
大地にくったりと四肢を伸ばしていた母の体は、次第に全身を震わせて身を強張らせる。
彼女は二人を庇い、弓兵に背中を散々射抜かれたのだ。
血が大量に流れすぎ、命の灯火が消えかけている。
平和だった、母の小さな領地に、見知らぬ賊が大挙して入り込んできたのは一刻前。
自警団は武器も持てないまま壊滅し、領民達も何もわけのわからぬまま、誰も彼もが己の命をただ守って逃げている。
そんな混乱の最中、領主の子供とはいえ幼い二人を助けてくれるものなどいない。
「……ムウ、……もう一度……、会いたかった……」
目尻の涙とともに、口から幾筋も血泡が零れる。
断末魔の痙攣が襲い、やがて、母の息は止まった。
「嫌だ……、母上死なないで……!!」
「エザリアおばさま!!」
泣いても叫んでも、母は二度と目覚めなかった。
そして、今、眼前で燃えている故郷も現実だ。
(どうして? どうしてこんなことに……!!)
母を埋葬する時間も無かった。
炎はどんどん森を焼き、彼らの背後に迫っている。
「いくぞニコル!!」
「イザーク……、でも……!!」
「貴様はこのまま、何もわからぬまま死ぬ気か!! 俺はごめんだ!!」
彼は涙を拭い、ニコルの手をしっかりと握り締め、歯を食いしばってただひたすらに海に向かって走った。
立ち止まったらもう歩けない。
このまま故郷を焼かれ、母が殺されたのかもわからず、虫けらのようになんて。
死にたくなかった。
海に行けば、父に会える。
彼は何でも知っている。
彼は誰よりも強い。
海に辿りつきさえすれば、全ての疑問が晴れるのだ。海に着きさえすれば!!
イザークが十歳の時だった。
それから7年後。
狼の心臓を、ナイフで突きたてて抉る。
その刃を伝って暖かな血潮がイザークの左腕を濡らすが、彼は構わずにますますナイフを深く食い込ませた。
やがて狼の金色の目はどんよりと濁り、覆い被さっていた四肢もくったりと動かなくなった。執念深く最期までイザークの右肩に食らいついていた獣の顎が、これでやっと外せる。
(ちっ……手間かけさせやがって……)
イザークは灰色の重い荷物を脇に転がすと、大きく息をつき、草の絨毯に仰向けに倒れて手足を伸ばした。
渾身の力を込めての死闘後だ。強張った筋肉をほぐすのに、新芽が出始めた大地は冷たく心地よい。
だが寝転んだ弾みで自分の肩で揃えた銀髪が、汗で顔にへばりついて目を覆う。その気持ち悪い感覚に我慢できず、よせばいいのにうっかりと血まみれの左手でかきあげる。
血色に染まった前髪の隙間から空を覗けば、何時の間にか錆色の雲が太陽の光を遮っているのが見えた。
彼がほっとしたのもつかの間、みるみるイザークの視界がぼやけ、滝の飛沫のような細かい雨が降り始める。
「……ちくしょう。俺にはくつろぐ時間も許されないのか……?」
苦笑まじりの吐息を零すとしぶしぶ立ちあがる。
ねぐらに戻ろうと振り返れば、現在の住処である石造りの塔は、霧雨のおかげで霞がかり、まるで煙に包まれているように見えた。
そう、あの幼き頃に燃えてしまった故郷のように。
(全く……縁起でもない……)
今日に限って酷く辛い昔を連想したのは、何かの予感があったのかもしれない。
イザークが眉を顰めた時、これまた最悪のタイミングで、大地と同じ色の髪を男のように短く切った女が小走りにやってきた。
彼女は自分が濡れそぼるのも構わずに、胸の中にしっかりと乾いたコットンの大きな布を抱いて守っている。
(うわっ、キラ!!)
雨が降ってきたため、自分を迎えに来たつもりの彼女に、イザークはため息をついた。
今後起こる騒動が、手に取るように予想つく。
「なんなのそれ!!」
果たして、彼女はまっしぐらにイザークのもとに来て、そして当然のことながら彼の右肩に飛びかかった。
「見せて!! すぐに手当てしなきゃ!!」
「まて貴様!! やめんか馬鹿者!!」
イザークの静止する間もなく、彼女は問答無用で彼の綿のシャツをびりっと引き裂いてくる。
この暴挙、信じられない。
この自分相手に恐れもひるむこともなく、こんな反応を見せる女はキラ以外いない。だがらこそ、どう対処していいのか解らなくなる。
血で赤黒く染まった布を剥ぎ取られた肩は、狼の牙傷が口型に丸く抉れていた。イザークの白い肉は裂け、裂傷からは血が止め処も無く流れている。
彼女は硬直しているイザークに構わず、右肩をぐいと掴んだ。
「痛ぅ!!」
「痛い? そうだよね……痛いよね……」
「握られりゃ当たり前だろが、この大馬鹿者!!」
「直ぐに手当てしよう!! 今すぐ帰ろう!!」
彼を見上げるキラは、もう大きな紫水晶の目に涙を溜めている。
(怪我した上に子守りか、くそっ)
そう心にため息を押し隠し、イザークは仕留めた狼の手足を、キラに破かれたシャツの破片でくるくる巻いた。
「貴様、獣避けの香木は?」
「……あ……」
彼女が何も持たずに飛び出したのは間違いない。
狼は家族で群れを作る。近くに潜んでいないと断言できない以上、この周辺もまだ危険だ。
「俺の濡れる心配より、自分の命を心配しろ。ったく、好き勝手にほこほこ出歩きやがって、ニコルは止めなかったのか?」
キラはイザークの頭へ、肩まで届く大きな布を被せると、ポンっと手を鳴らした。
「そうそう!! ニコルってば、また風邪ひいちゃって熱が下がらないんだ。僕じゃ解熱剤なんて作れないから……」
みるみる狼狽し、またおろおろと涙ぐみだす。
「イザーク、早く帰ろう。ね」
(……いい加減気づけ、この馬鹿者が!!)
今度こそイザークは呆れ、疲れ果てたため息を吐いた。
ニコルが仮病を使っているのは間違い無いが、毎回騙される彼女も彼女だ。
「獣避けばら撒いてくる。貴様は先に帰っていろ」
「駄目だよ。手当てが先!!」
キラは猛然とイザークの左腕を引っつかんだ。けれどそんな風に女に主導権を握られるなど、彼の矜持が許さない。
「おいキラ。俺を子供扱いするな。犯すぞ!!」
「生娘じゃなくなれば、価値下がるんじゃなかったっけ。いいの? だって僕、まだ大事な金のなる木でしょ?」
「……冗談だ。誰が二十歳過ぎた行き遅れのババアなんか抱くか」
いくらすごんでも、彼女はぼけつつ冷静で態度が変わらない。