雨に似ている
それが嬉しくもあり、けれど、気取られないために、わざわざ冷たく彼女の腕を払い、シャツでくくった狼の足を、左手で持ち上げた。
「イザーク、狼なんて後にしたら?」
「お前な、ここを何処だと思ってる?」
獣避けの香木すらばら撒かず、狼の死骸を放置すれば……まず、この血の匂いに惹かれて肉食獣が集まってくる。
折角苦労して仕留めた獲物なのに、ただで食われるのも腹ただしい。
やがてキラも説得を諦めたのか、右手で狼の足を持つ。
そして、彼の負担をなるべく減らそうと、かなり頑張って力を入れている。
何にでも一生懸命で、媚もへつらいもない等身大。
きっと何処にいても彼女は変わらないのだろう。
(こんな馬鹿、見たことがない)
まったく変な女だった。
鬱陶しい霧雨が、抉られた右肩を痛めつける。痛みが酷くなってきたし、彼女に風邪をひかせたくなくて、イザークは大人しく住処の塔に戻った。
★☆★☆★
「うわぁ、ニコル!! 君なにやってるのもう!!」
塔のドアを潜った瞬間、キラは狼もイザークも放りだした。
駆け寄った先にはふわふわの巻き毛を石造りの床に投げ出し、暖炉の前でじたばたと汚れるに任せてひっくり返っている少年がいる。
「キラァ〜……僕お腹すいたぁ〜」
ニコルは熱で顔を真っ赤にしながらも、自分を抱き起こそうと膝をついたキラの、ふくよかな胸にぱふっと嬉しそうにしがみつく。
そんな胸に顔を埋める確信犯な犯行に気づくこともなく、彼女は少年の体をすぐに引き剥がすと、こつんとおでこに自分のをくっつけた。
「あーあ……お熱が酷いよ。僕、確か起きちゃ駄目って言ったよね?」
本気で心配して目を吊り上げているキラと対照的に、再び性懲りもなく胸に顔を埋めるニコルの目尻は下がりっぱなしだ。
イザークの腕がぷるぷる震え、殴りたい衝動にかられる。
「大丈夫♪ 僕もう治っちゃった」
「嘘言っちゃ駄目。君は体が弱いんだから!!」
彼女は必死の形相で、自分の背と変わらない筈のニコルの体を背に担ぐと、ずるずると引きずりながら隣室のベッドへ運んでいく。
「俺も手伝おうか?」
「うわぁ!! イザークは僕に触らないで!! シッシッ!!」
ニコルは目をむいて手をぴらぴら振る。彼は血の匂いが全く駄目なのだ。
(貴様、そんな元気があるのなら、自分の足で戻れ!! 俺のほうが重症なんだぞ!!)
イザークは「馬鹿者が」とひとりごちると、かしかしと濡れた頭を布で拭き、煉瓦でできた暖炉脇の棚に置かれた薬袋と酒ビンを取り、木製テーブルにひっくり返した。
コルクを指で弾き、右肩に、消毒のかわりにと一口蒸留酒を含み、霧吹きのようにぶちまける。途端、肩を起点に鈍く熱い痛みが全身を駆け巡る。
「痛ぅ!!」
これしきでうめくなど、自分自身を情けなく思いつつ、手際良く針と糸で大きな牙傷を縫い合わせた。
(まったく、俺としたことが……油断した)
入り口に捨て置いてある狼に目を走らせれば、銀のしなやかな毛皮を持つ獣はくったりとしていて、二度と自力では動かない。
久々の強敵だった。
今のイザークを負傷させるなど、『ロゴス』の古参以外まずいない。
こんな時でなければ楽しい遊びで済んだのだが、命の保障がない現在、自分の身を守るためにも利き腕の怪我は痛い。
さっさと弓矢で殺しておけば良かったと後悔しても後の祭り。
この分では、二三週間は使い物にならないだろう。
やってしまったことをいつまでもぐじぐじ悩むのは馬鹿げているし、性分ではない。
牙傷を縫い終わると、残りは血止め草と諸々の薬草を小麦粉で混ぜたもので、しっかりと傷口を湿布した。
左手でたどたどしく包帯を巻き終えると、濡らした布で血を綺麗に拭い、軽く薔薇水を身にかける。
ニコルは血の匂いを嗅ぐと、気持ち悪さにのた打ち回るのだ。
匂いが香水でごまかせたのを確認し終え、清めた体に黒い上着を無造作に被り、彼は相棒のいる寝室へと向かった。
木製の重厚なドアをノックして、返事も待たずに入る。
石畳に敷かれた毛足の長い絨毯の上、しっかりした作りのベッドには、暖かそうでふかふかな羽根布団に包まったニコルが機嫌よさそうに寝転んでおり、キラはその傍らでかいがいしく、彼の額に濡れた布を取り替えていたところだった。
「キラ、俺も腹が空いた。昼ご飯にしてくれないか?」
「あ、はぁい」
と振りかえったキラは、イザークの右肩の包帯に目をやり青ざめた。
(やっぱり忘れてやがったな)
イザークは恨みがましい目をつくり、ジロリと彼女を見据えて顎をしゃくる。
「……じゃあニコル、ちょっと待っててね。直ぐに軽食作ってくるから」
聡い彼女はイザークの、『この部屋出ていけ』の合図に気づき、ベット脇の椅子から立ちあがると、ぱたぱたと慌てて小走りに立ち去った。
逢瀬を邪魔されたニコルは、気持ち頬を膨らませてイザークを見る。
ベットに横たわる彼の頬は真っ赤だった。額には濡れた布が小さく畳まれ、可愛くのせられている。
イザークはそんな彼を不躾にじろじろ見据えると、キラが座っていた椅子にどっかり腰を降ろした。
「……貴様、今度は何を飲んだ?……」
「……タバコの葉っぱ……」
「成る程な」
イザークは持ってきた薬袋に左手を突っ込んだ。
毒を飲み、すぐ解毒剤を飲む。
そうすると体が毒を体外に出そうと活動を始めるため、発熱し汗をかくのだ。
ニコルがいつもひく風邪のカラクリは、こんな自作自演の仮病だった。
「貴様、キラに構って欲しいのも解るが、大概にしておけ」
二人の体は、殆どの毒に慣らされている。
だからニコルが発熱するまで毒物を口に含もうとするならば、軽く五十人は殺せる分量だろう。いくら体を毒に慣らしてあるとはいえ、こうも頻繁に劇薬を使用すれば、きっといつかは臓器の機能が壊れてしまう。
イザークはアスピリンの白い粉末を取り出すと、瓶のコルクを抜き、彼の鼻をつまんで問答無用で口に突っ込んだ。
「ゲホッ………ゴホッゴホッ……!!」
「飲め」
水を注いだグラスを手渡すと、むせ込みながらも全部飲み干す。
「ちょっとイザーク。僕はあなたと違って華奢なんですよ。もう少しやさしく扱ってください」
「は、女じゃあるまいし」
イザークが鼻で笑うと、彼は益々気色ばむ。
「それに、いざって時に体が動かなけりゃ、何にもならないぞ」
「………『いざって時』なんて、本当に来るんですか?……」
それは二人の間では言ってはいけないと、暗黙のうちに了解していた言葉だ。
「ニコル、ルール違反だぞ」
「だって!!」
振り仰いだ彼の眼差しは怯えている。
「僕達がここに閉じ込められて、もう半年も過ぎたんですよ」
「ニコル」
「『ロゴス』の奴らは……僕達を一体どうするつもりなのでしょうか……」
「ニコル」
「もう、僕気が狂いそうです!!」
「ニコル。止せ」
「だって!! さっさと終わらせて欲しい……、僕らは処刑ですか? それとも助かるんですか?」
「しつこい!! 止せって言ってるだろ!!」
思わず手を振り上げたが、寸での所で殴るのを止めた。