雨に似ている
握り締めた左手は、とっくの昔に爪が皮膚を食い破っている。
体が熱い。今にも爆発しそうだ。
イザークは腰帯からナイフを引き抜くと、ムウに向かって踊りかかった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
だが父はマントの裾を払うと、流れるように音も無く長剣を引き抜き、ニコルの首に剣先を当てた。
「ここで二人とも死ぬか?」
彼の首は何時の間にか皮一枚だけ切り裂かれていた。その切り口からうっすらと血が滲み、まるで緋色の紐を巻かれているように見える。その絞首を思わせる切り傷を見て、イザークの振り上げられた刃が止まった。
(……勝てない……)
実力が違いすぎる。
このままではニコルも自分も死ぬ。
何もできぬまま、何一つ母の仇も取れず恨みも晴らせぬまま?
怒りで全身が燃え滾るように震えが止まらない。
「ち…くしょうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……!!」
(……俺は一体なんのために……生きてきたんだ!!)
「さあどうするイザーク? 任務を果たすか? ここで死ぬか?」
ムウの剣の先が、無慈悲にもニコルの首に少し埋まる。
彼が手首を少し動かせば、ニコルの喉は切り落とされるだろ。
「やめろ!! やめてくれ!! やめてくれ……!!」
(悪夢なら覚めてくれ……、頼むから……!!)
カタンと、木のドアが閉まる音が耳に届く。
イザークが後ろを振り返ると、背後にいた筈のキラが消えていた。
(馬鹿!! 外には狼が……!!)
だが、直ぐに石の階段を駆け上がる音が響く。
身投げする気だ。
そう頭に過った瞬間、イザークは我を忘れて駆け出した。そんな彼の耳に、ムウの無情な怒声が届く。
「標的の自害は認めない。お前が仕損じればこのままニコルを殺す!!」
「ちくしょう――――――――――――!!」
昇り慣れた階段が、まるで死刑台に続いているように思える。
イザークは嗚咽を堪えて歯を食いしばった。
左手を背に回し、腰帯からナイフを引き抜く。
今からキラを殺すのだ。彼の初めて愛した女を……この手で!!
愛しい女は、螺旋階段の中腹にある、アーチ型の窓にたどり着くと、窓枠に腰を下ろしてイザークを見下ろしていた。
息が上がって胸を上下に弾ませているが、彼を見る顔はいつもと同じ。
優しい慈しむような穏やかな微笑みを浮かべていた。
ムウの声が聞こえていたのだろう。
だから彼女は、イザークの刃を受けるために待っている。
堪らなかった。
抜き身のナイフを持つ左手が震えてくる。
「どうして……貴様は呪わないんだ……?」
一歩一歩足を動かすごとに、彼女と自分の距離が縮まっていく。
足が鉛のように重い。
「こんな運命を……貴様の結婚する筈だった男の兄を、アスハの血を、……貴様を殺すこの俺をどうして罵倒しない?」
罵って欲しかった。恐怖で怯えて欲しかった。怒って卑怯者と泣き叫んで罵倒して欲しかった。そんな醜さを見せ付けてくれたのなら、まだ楽に殺せた。
「俺は…まだ死ねない。……あいつを、……ムウを殺すまで、……だから……」
後数歩で彼女の側に近寄れるのに、足が凍りついて動けない。
そんなイザークに微笑み続けながら、頭の後ろに両手を回し、彼女はいつも首に架けていた金鳥の護符を外した。
「これね、僕の大切なアスラン……、親友で兄弟のようにして育った人にね、別れの時に貰ったものなんだ。修道院を出るとき、『キラは絶対に幸せになれ』って」
彼女は一度手の平にのせ、そっと唇を落とした。
「イザークにあげるよ。大切にしてね」
彼女はにこっと微笑み、護符を手放した。
それはきっと、緩やかな放物線をかいて、イザークの元へと向かう筈だった。
だが、彼女の震える指先が、力加減を狂わせたのだろう。
「!!」
護符は天井高く上がり、イザークが一歩前に歩いたら受け取れる場所に落ちてきた。
護符はずっと彼女の心を支えてきた物。しかも最期の願いを無碍にできない。
思わず駆け寄り、石畳に落ちる前に、ナイフを持つ左手でしっかりと受け止めた。
「………君は生きて………」
柔らかなキラの声に、イザークは慌てて顔を上げた。
瞬間、彼の視界が赤い霧で染まる。
「キラァァァァァァァ!! あうっ!!」
咄嗟に右手を伸ばすが、怪我を負った肩が動かず、今一歩手が伸びない。
愛しい女の体が窓の外に落ちるのに、彼の手は間に合わなかった。
窓に駆け寄って見下ろせば、彼女の身体は血飛沫を撒き散らしつつ、花弁のように緑の大地に吸い込まれていく。
やがて、鈍い音が響き、永遠に時を止めた。
大地に仰向けになって抱かれた彼女の白い喉には、ナイフが突き立てられていた。
「!!」
イザークの握っていたナイフが、手から滑り落ちる。
あの見覚えのある柄。
彼女の命を奪ったナイフは、間違いなくイザークの物だ。
(……何故だ?……)
彼には、何が起こっているのか解らなかった。
心臓が痛い。喉がひりついてカラカラだ。
窓枠に手を乗せ、身を乗り出した時、イザークの靴が何か固いものを踏みしめた。
「!!」
ナイフの鞘だった。イザークのナイフの鞘だ。
狼の毛皮をなめすため、キラに貸した、彼のナイフだった。
彼女は、最初からこうするつもりで………。
「………何故だ………」
仰向けに横たわる彼女の顔は穏やかだった。
全ての仕事を成し遂げたかと言うように、満足げに微笑んでいる。
イザークの苦しみを少しは取り除けたと。
自分を手にかけるのを躊躇っていた彼に対する、彼女の最期の自己犠牲だ。
「こんな愛情……理解できない……こんな……」
(貴様は、何故こんなに……俺を愛せた?)
「…キラ……、キラぁ………」
どうしてお前が死ななきゃならなかった?
お前が一体何したって言うんだ?
キラ……キラキラキラキラ……キラ……
「………ふぅぐぅ………」
嗚咽を堪え、窓枠を握り締めて膝をつく。
堪えても堪えても涙があふれてくる。
視界が霞み、キラの亡骸がぼやけて見える。
それはちょうど、彼女が愛した霧雨につつまれているかのように……。
Fin