雨に似ている
「プラント王国にはギルバート・デュランダル王がいるだろう。その弟の細君を殺せ。方法は任せるが、賊に襲われたように見せかけろ。犯そうが輪姦しようが構わないが、最期には惨たらしく全身ナイフで切り刻んで出血死させ、海辺に捨ててくれ」
ムウはそれだけを言うと、口を噤んでしまった。
待てども暮らせども、彼は一向にその先を言わない。
イザークは焦れて叫んだ。
「父上!! 獲物の居場所は?」
ムウは一瞬虚をつかれ、きょとんと幼い目になった。そして首をかしげてイザークを改めて見る。
「お前もな、なかなか天然ボケなのは面白いが、マジで言っているのなら大概にしておけよ。各国の王族チェックは怠るなって、仕事の基本だろう」
今度はイザークが首を傾げる番だった。クルーゼの仮面からはみ出している口は面白そうに歪み、彼に抱きかかえられているニコルは具合が悪いのか、ガタガタに震えている。
「まだわかんねーのか、ほら、そこにいるだろ?」
彼が顎をしゃくった先は、イザークの真後ろだった。彼が振り返ると、果たして、そこには蒼白になったキラがいた。
「王弟、レイ・ザ・バレル大公妃、キラ・ユラ・アスハ王女殿下だ。さあさあ簡単な仕事だろ?とっとと片付けた♪」
イザークの心臓が、トクンと音を立てて鳴り響く。
彼の頭の中は真っ白になった。
(うそだろ?)
喉がカラカラに乾き、ひりつくように痛い。
心臓が早鐘のように鼓動を打ち、視界もぼやけて見える。
吹っ飛んだ思考を除々に戻せば、眼前にあるのは信じがたい現実で、誰よりも頼りにしていた父が、笑ってイザークに最愛の女を殺せと命じている。
「……父上、アスハが身代金を払えば?……」
我ながらぞっとする程声が掠れる。
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせるが、鼓動はいよいよ激しく打ちつけ、喉が締め付けられて思うように呼吸すらできない。
口を動かそうにも引きつって開かず、上手く言葉が紡げない。
「……見せしめのために殺さずとも、俺が今からオーブに行って、キラの代価を貰ってくる。だから、……だから俺に時間をくれ!! この女を殺す必要はない!!」
『ロゴス』の命令は絶対。狙われたら最後、どうあがいたとて助からない。
だがそれも、依頼があればこその話。
イザークはムウに縋り付いた。
「お願いです!! 『ロゴス』が提示した額の五倍は貰ってくると約束します!! だからキラを殺すのは待ってくれ、……お願いだから!!」
イザークの必死の懇願にも、無慈悲な暗殺者は微動だにしない。
「父上!! こいつは『ロゴス』が八ヶ月も養っていたのです。このまま殺したら、それこそ大損でしょう!!」
ムウは凍てついた眼差しでジロリとイザークを見下ろした。
「また上層部の命令に逆らうのなら、お前達の命運もここまでだな」
「……うぁ……」
うめき声に振り返れば、クルーゼが腕に捕らえたニコルの首筋に、ナイフの刃を宛がっている。
少しでも身じろぎすれば動脈を切られるだろう。
もっとも、五体満足な時ならいざ知らず、毒物による高熱で朦朧とした彼では、とても楽師の長に抵抗できる筈もない。
「クルーゼ叔父上、無体なことは止めてください!! 父上も!! 何か方法がある筈だ。キラが助かる方法が絶対に……」
「イザーク、お前は勘違いしている。王女を殺すのは身代金が入らなかったからじゃない、『依頼』があったからだ」
「…父上!!」
「開戦回避の政略結婚なんざ、人質の王女が手元に届かなければ意味はない。ぶっちゃけギルバート・デュランダル王はアスハを侵略したくて仕方ないし、サハク一族のロンドはアスハ家を追い落とすために同盟破棄を望んだ。『ロゴス』はギルバートとロンドから、各々十万ギゼルでこの仕事を請け負った」
「………そんな………」
イザークは絶望で目の前が暗くなった。
もうキラは何をしても助からない。組織で依頼を受けた以上、自分が手を下さなくても、誰かが必ず殺す。
だから『ロゴス』は世間に恐れられているのだ。
仕事を完全に遂行することにより、『ロゴス』は信用を勝ち得、顧客も依頼するのに大量の金貨を積む。だから命令違反は許されない。
暗殺ギルドの威信を傷つけるのなら、死を持って贖わされる。
「それなら、……どうして俺達とキラを半年も一緒に暮らさせたんだ?」
情が移る前なら楽に彼女を殺せた。
けれど今は殺したくない。殺せる訳がない。
イザークが、心の底から愛しているキラを殺せるはずがない!!
ムウは冷ややかに、クルーゼに向かって微笑んだ。
「兄貴の言う通り。ホント良い教材だったな」
「―――――――――――!!」
イザークは自分の耳を疑った。とても実父の言葉とは思えなかった。
縋るように見上げれば、やはりムウは仮面のように無表情で、自分を見下ろしている。
「イザーク、お前は技術的には申し分ないが情に脆すぎる。ニコルのように一度懐に入れたものは、どんなに足手まといになろうと大事にして守るだろうが。そんな弱さは必要ない。
暗殺業を生業とするものに、情けはいらねーんだ。
依頼を受けたからには、親であろうと友であろうと、お前はその手で殺せ。でないと、死ぬのはお前だ」
「そんな、……俺はそんなの嫌だ!!」
「ほら、さっさとその女を殺せよ」
イザークはキラを背に庇い、激しく首を左右に振った。
「できない。俺は彼女を愛している!! 殺すなら俺も一緒に殺せ!!」
イザークは、きつくムウを睨みつけた。
「どうせもう俺は母の復讐を終えた!! キラが、……この女がいない世界に俺だけ生きてたって仕方がない!!
愛しているんだ、キラを!! 生涯ただ一人の女だって思った女だ。
父上だって母上を愛した筈だ!! なら俺の気持ちが解るだろ!!
愛しい女を、殺せる筈ないだろうが!!」
ムウはうっすらと微笑みを浮かべた。
「俺は確かにお前の母を愛していた。足手まといになるまではな」
それは非常に美しく、イザークが見たこともない程酷薄で残忍な微笑だった。
「イザーク。マイウスのなぁ、前領主を殺したのは……俺だよ」
(な……何―――――!!)
≪………ムウ………もう一度、貴方に……会いたかった………≫
断末魔の痙攣が襲い、くったりと動かなくなる。
虫けらのように母は見知らぬ兵士に射殺され、その亡骸すら埋葬できなかった。
自分は何もできなかった。それが悔しくて。
母を殺し、自分達を虫けらのごとく扱った者達へ、復讐するために生きてきた。そのためだけに、人を殺して生き長らえてきた。
≪もう一度………会いたかった……≫
≪……ムウ……≫
本当の仇が目の前にいたなんて!!
母を殺し、故郷を焼いた元凶が!!
こいつが全ての!!
「母上……は、……最期まで、貴様を望み、信じきっていたのに……!!」
かみ締めた奥歯が砕け、錆びた鉄みたいな血の味が、口一杯に広がっていく。
飲み込めば、気持ち悪さに胸がむかつき吐き気をもよおした。
今はもう、こいつと血のつながりがあることすら汚らわしい。気持ち悪さに胸がむかつく。