僕らはそれを繰り返す
≪本日付より、プロジェクト:7368697A756Fの極限肉体稼働素体試行実験完結に伴うフェーズ移行を開始。運用上精神の安定を最優先とした結果、記憶の初期化及び誘導プログラムの導入を承認する。尚、遺伝子順応進化素体の保全を最優先とすることを根拠に、有事の際は素体の強制終了プログラム起動が望ましい。素体の物理的排除の可能性はゼロとする。本件はこれより便宜上プロジェクト:6D696B61646Fの進化実験コードを使用するものとする。 以上≫
そこには何でもあって何もなかった。
食べ物はあっても嗜好品は無く、清潔な白壁はあっても気を紛らわせる緑は無い。自由に開く窓がある分だけ、どうやっても開かない扉がある。俺に名前を付けて呼びたがる奴がいる反面、俺の存在すら忘れてしまう奴もいた。不思議なことはいくらでもあった。だが俺の脳みそじゃ考えられることなんて大した分量もなく、結局まぁいいか、なんて言って答えを先送りし続けてきたのだ。そうやって積み重ねてきた怠惰な時間は、少しづつ何かを奪っているようにも思えた。
その部屋を見つけたのは本当にただの偶然だった。
これまでどうやったって開くことが出来なかった扉がその日開いたってだけの。普段移動できる距離よりほんの一区画分広がった自由な空間に俺は迷わず踏み込む。一歩足を進めた瞬間、目を眇めたくなるほどの光を感じて、思わず目を瞬かせた。どうやら天井がガラス張りになっているため、降り注いだ外の光が白壁に反射しているようだ。中は俺の部屋が何十個も入るだろう大きさの、公園だった。もちろん本物の公園を見たことはない。図書室から適当に拝借してくるDVDでよく見る程度で、けれど俺にはこれが公園を模していることも、何という名前なのかも解っていた。フラフラと宛てもなく遊歩道を渡る。窓は天井のみ、横は白壁、足元は褐色のレンガ、脇には針葉樹、中央には大きな池がある。そこを取り囲むようにして日焼けしたベンチがいくつも設置されている。まるで背景のないセットのようなそれは気味の悪い光景だ。鳥はいないのに囀りが聞こえるし、葉が揺れて擦れる音もする。そう、風が吹いているのだ。どこにも空調設備は見られないのに。全く理解できないものを前にするというのは、本当に気持ち悪い。己の感覚と異なるものを見たとき、俺の本能はそいつをぶっ壊したくて堪らなくなる。しかし今は、本能がそれを許さないようだった。どういうわけか、疲れた日にベッドに潜り込んだ時のような安堵すら感じている。慣らされている。否、どれでもない。だって俺が一番違和感を感じているものは、今の俺自身だ。
「ここに来たのは初めてですね」
「あ?」
足を止めた俺に、正面から声がかかった。ふと顔をあげると、数歩先のベンチからひょろりとした少年がこちらに笑いかけている。短い黒髪が風に煽られて白い額を泳ぐ。そのすぐ下に覗く黒にも藍にも見える瞳が瞬き一つせずこちらを観察している。幼い成りをしているのに、その表情は母親が子どもを抱き上げる時のような優しさを感じた。親が存在しない俺にとっては勿論、これも映画の受け売りだが。そう思った頃にはもう、目の前の少年のことが気になって気になって仕方がなかった。久しぶりの感情の起伏に、ソワソワと落ち着かない気持ちになる。普段から何が起ころうとも大した思考をしないこの鈍い脳みそが、待ってましたとばかりに回転しているのが解る。キュッと瞳孔が精密な機械のように小さな唸り声をあげれば、視界はより鮮明に目の前の実像を写す。
「誰だお前」
「この部屋の管理を任されているミカドといいます。だからここに出入りしている人の顔は全て覚えているんですよ。貴方には今日初めてお会いしました。シズオさん、ですね?」
「知ってんのか?」
「勿論、貴方は有名人ですから。ここに来られる皆さんの話にもよく出てきますし」
「そうなのか・・・」
知らなかったんですか?と、さも可笑しそうに小さく口元を緩める姿に、何故か顔が熱くなった。こんな肉体的反応は初めてだ。どうにか治めたくて頬をごしごし擦ってみたが効果なんてまるで無く、それどころか首筋まで熱くなりだしたものだから俺は慌てに慌てた。
「なぁ、俺の顔、どうにかなってねーか?」
「いや、赤くなってますけど・・・あ、すみません。僕が笑っちゃったから」
「赤い?それだけか?」
「へ?どうしたんです?」
戸惑う俺の心象が感染したようにミカドの眉も下がった。無地の白シャツを翻して立ち上がると心配そうにこちらに近づく。手の届く距離になるといよいよ俺の身体の不可思議現象は臨界点を超えた。耳の裏で心臓の音がする。模擬戦闘を一日中続けた時と同じ症状だ。今俺はただここに突っ立っているだけだというのに。そういえばあの時はどうなったっけ。そう、たしか上手く呼吸が出来なくなって、酸欠でぶっ倒れた挙句軽い記憶障害を引き起こしたのだった。以前気に入っていた映画のタイトルを忘れてしまって、結局思い出せずに諦めて、それから、この公園に似た景色が出てくる映画に乗り換えたのだ。記憶を掘り起こしている間も俺の顔は赤いままのようで、突然動揺しだした俺を心配そうに見上げていたミカドは、何やら考え込む素振りで口元を引き結んでいたかと思うと、突然前触れもなく俺の頭を掴んで引き寄せた。
「あいたっ」
「う、おぉ?!」
無防備だった頭は導かれるまま着地した。少年の額の上に。ごつ、と鈍い音がしたからきっと本当に痛かったに違いない。俺の頭はでかい岩を砕いても割れないから。視界が歪むほど近くにあるあの目が痛みを堪えているのが解る。俺は申し訳ないと思う暇もないくらい動揺した。動揺し過ぎて出た変な声に、こいつは今度こそ声をあげて笑う。
「あはは、何ですかその声」
「おっ、ばっ、な・・・」
「落ち着いて下さい。ほら吸って吐いて吸って吐いてー」
落ち着いてなんかいられるか。力の限りそう叫びたかったがそれも叶わず、最早この身体をどうやって制御していたのかすらすっぽりと頭の中から抜け落ちたようだった。されるがまま額に額をくっ付けて大きく深呼吸しながら目を閉じると、他の感覚が鋭く情報を広い始めた。触れたところからさざ波のように鈍い痛みが広がっていく。それはだんだんとこの部屋に降る光の温度みたいに温くなって、今日初めて浴びたはずのそれを何処か懐かしいもののように感じさせた。でもこれは錯覚なのだ。俺が唯一の楽しみにしている映画の取り留めのない一場面が、自意識と融合してしまっているだけのこと。夢にみるほど焦がれているのに、どんな努力をしてもあれを手に入れるのは不可能だということを、俺はまだ試してもいないのに知っている。誰に止められたわけでもないのに。誰に命令されたわけでもないのに。もうここでしか生きられないことを知っているのだ。俺が沢山人を殺せるのと同じくらい、それはもう明確に運命付けられた筋道で、覆せない。
作品名:僕らはそれを繰り返す 作家名:まじこ