僕らはそれを繰り返す
重いため息を一つ吐くことで簡単にこれまでの思考を忘れ去れる俺は、あえてそうはせずに紙より軽い瞼を力いっぱい無理矢理に抉じ開けた。それを待っていた藍色の瞳が一寸の動揺も戸惑いもなくしっかりこちらの視線を受け止める。ように見えたのは一瞬で、すぐにそれは戸惑ったように眇められ、水面が風に揺れるように滲んでしまった。
「何でお前泣いてんだ」
「僕、泣いてます?」
「うん」
「こんなの初めてです。悲しくないのに」
「何でだろうな」
「不思議ですね。でもこういうの好きなんです。不思議なものが好きなんですよ」
「なんだそりゃ。お前が一番不思議じゃねーか」
「そんなことないです。シズオさんの方がよっぽど不思議です。あなたにはひとの業が有る。生きたいとか、欲しいとか、そういうものを持ってる。違いますか?」
ボロボロ涙が零れ落ちていくのもそのままに、ミカドの両手が労わる仕草で俺の頬から耳の裏までを撫でていく。ただ足元に落ちていくばかりの涙が、藍色を含んで、毎日のように見る映画のあの、朝焼けに浮かぶ夜の名残みたいな海の様子を思い出させた。そこは寒いだろうか、温かいだろうか。そうやって感触を想像しては一つひとつ何かを諦めてきた、あの時の寂寥感と共に。でも、こんな心許ない気持ちもミカドの肌が触れているだけでどういうわけか落ち着く。指がなぞるその軌跡に体温が移ったようにしっくりと馴染む。それは鳩尾の辺りからじわりじわりと音もなく浸透して、あるはずのない身体の真ん中にあるでっかい穴をそれで埋めようとしている、そんな感覚。あるいは、欲しくて仕方がない画面の向こうの景色や感情に触れたような充足、安堵、小さい幸福。そういう、俺の感情を揺さぶる子どもじみた部分が晒されるような予感がする。きっとまた欲しくなる。するとすかさず暗示が掛かったかのように、頭の中の自分が何度も呟く。深呼吸をしろ。忘れろ。吸ったら吐け。塵も残すな。こうしていつだって、俺の中には何も残らない。
「でも、俺はそういうもんを根こそぎ奪って踏みつけるために居る。だから俺は全部、なるべく早く忘れちまうんだ。深呼吸一つすればいい。そういう風にできてる」
大きく息を吸う前に真実を告げる。不貞腐れたような声音になってしまったが、愛嬌だ。俺だってこんなのは望んでいない。出来ることなら、欲しいものを欲しいと思うままに叫びたいし、戸惑うことなく画面の向こう側にしかない世界に走り出してしまいたかった。誰にも言ったことのない願望、息抜き程度の空想だ。でも、ミカドは涙を流す前のあの一瞬ですべてを見透かしたようだった。嘘が下手だなぁ、と誰ともなく呟いた後、頬から手を離して俺の掌にそれを重ねる。コトリ、と何かが転がり落ちた。
「これ、持っていてください」
「何だ?」
「貝殻です」
渡されたのは小さい貝殻だった。この部屋の壁くらい白いが、表面の渦が光を反射して何色にも見える。その軽さから、少し力を込めれば簡単に折れてしまうだろう。そう思うと怖くなって、掌を突っ張ってなるべく俺の力の及ばないように持ち直す。
「駄目だ。俺じゃ粉々にしちまう。返す」
「いいえ、シズオさんが持ってないと駄目なんです」
「何だ?どういう意味だ?」
「意味なんてありませんよ。帰るべきところに帰るのは摂理だって、そう思ったんです。僕らに摂理が及ぶのかは解りませんけど・・・。ほら、大丈夫でしょ」
俺の問いかけを一蹴したミカドは、俺のぎこちない掌を両手で覆ってゆっくりと貝殻を握らせた。夢に見るあの海にもあるもの。あそこには走って行けないけど、この貝殻にはその切れ端がある。思わず、指先に摘まんで匂いを嗅いだ。想像上の潮風の匂いがしないかと思って。そんな即物的な行動を笑われてしまったけど、それも悪くない。滲んでいた藍色はいつのまにか乾ききっていて、朝焼けから一変、日の落ちた夜の海の色だ。暮れ過ぎた空を映す海は、底のない沼のような格好をしていてもどこか優しさの抜けない、淡く絵具を垂らしたみたいな曖昧な色をしている。そんな気がした。
「潮の匂いしました?」
「お前の匂いがする」
「あはは、いつか行けたらいいですね」
「・・・そうだな。夜の海が見てぇな。うん、夜がいい」
不思議だ。今まで見た映画のどのシーンにも、夜の海なんて出てこなかったのに。
俺は何でそう思ったんだろう。
≪経過報告、第一日目。接触に伴う精神障害が発生したものの、導入プログラムの施行はクリア。記憶中枢への平均値利用は検討の必要あり。但し、精神汚染のリスクに鑑みて初期化の再試行は保留。遺伝子順応進化素体の規約違反について、前案件にて交配した特殊情報統合素体最終ナンバーの特性が働いたものと推測する。詳細は別データを参照のこと。≫
作品名:僕らはそれを繰り返す 作家名:まじこ