夢のあと(短編集)
初恋は、ヒトミちゃん
「………………」
第一沢木も沢木だ。折角こっちが一生懸命フォローに回ったのに、あの態度はなんなんだ。馬鹿にするのも大概にして欲しい。
蛍は鼻息も荒く廊下を早足で歩いていた。「チビ」が沢木に対して禁句なのは骨の髄まで分かっていたから、口に出すのはなんとか控えたけれど、今思えばむしろ言ってしまいたかったくらいだ。
「沢木の阿呆、間抜け、とんちんかん、朴念仁……」
自然、数え上げていく語気もどんどん強くなっていく。
沢木を「背が低いから」という理由でフったヒトミちゃんは蛍の眼中にはない。何しろ蛍は『大丈夫』と言ってやったのだ。『身長なんて、これからいくらでも伸びる』、とも。本当はたまらなくむしゃくしゃしていたのに。
「結城くん」
ああもう我慢ならない。思ったところで蛍の足が止まった。
目の前には、ヒトミちゃん。
「何、」
「あの、ね、結城くん」
ヒトミちゃんに恨みはない。恨みはないのだが、やはりその顔をまともに見られない。そのうち蛍の視線は自然と彼女の目よりも心持ち下へと向かっていった。沢木はここらへんを見ながら告白したのかもしれない。どうしても身長が気になるんたら自分より背が低い女子を選べばいいものを、どうして、よりによって、ヒトミちゃん?
「あのね、私、結城くんが好き!」
「……ヒトミちゃん、何センチだっけ」
「え、158だよぉ」
「(絶対サバ読んでるな)ふぅん、僕は157だけど」
「うん、それで?」
「ヒトミちゃんより身長低いから、ごめんね。自分より身長の低い男子とは付き合えないんだろ」
「え……」
呟いて、さっさと踵を返した。自分から謝るつもりは毛頭なかったのに、沢木に会いたい、と思ったのである。
*
「沢木」
勝手知ったる蔵の中にずかずか踏み入れると、案の定幼馴染みはぼんやり空を眺めていた。彼にしか見えない、空気中の菌たちと遊んでいるのだ。
(ヒトミちゃんにこんなこと聞かせたら、卒倒しかねないな)
女子は随分面倒な生き物である。
「おいこらそこのチビ」
「おらぁ蛍てめぇ人が黙ってりゃ」
意外に俊敏な動きで身を翻した沢木に対応しきれず、押し倒されるような形で蛍は冷たい床へと背中をしたたかに打ち付けた。
なのに、言いたいことを口に出したせいかどうしようもなく笑いが込み上げてきてしまう。
「け、蛍……?」
見上げれば、自分の笑いに思い切り引いたらしい沢木の引きつった表情が目に飛び込んできた。おかげで一旦収まったかのように思われた笑いが再び蛍の表情筋を弛ませていく。
「なぁ、蛍ってば、どうしちまったんだよ」
「ヒトミちゃんに告白された」
「え」
途端、沢木からさあっと表情と血の気が一緒になって消えていく。
「から、断っといた」
「えぇえ?!」
「だって、あの子自分より背が低い男子とは付き合わないんだろ?」
先程と同じ台詞を誇らしげに繰り返す。蛍の台詞で赤くなったり青くなったりと信号灯よりも忙しかった沢木の顔のなかで、目は今や点になっていた。
「僕もヒトミちゃんより背が低いから」
最後に、とっておきの一言を沢木に投げ掛けると、蛍は今までとは違った意味でにぃ、と笑うと、呆然自失の沢木の腕に触れた。
「もういいだろ、沢木」
「あ、ああ」
「たぶん母さんがおやつ用意してるから、あとでうちに来いよ」
「おぅ」
制服についた埃をばたばたと払っていると、こちらもいい加減痺れたらしい腕をマッサージしていた沢木が立ち上がってひとつ伸びをした。今更だが、蔵の中は余り居心地がよくない。ふたりとも今は辛うじて相手の姿を目視できているものの、日が落ちる前に出るのが得策だろう。
沢木を真似た伸びをしてから、蛍は先に蔵から出ていった。空一杯に広がる夕日の紅が目を差して、また一日が過ぎていこうとしていることを告げていた。
(了)