夢のあと(短編集)
ものやおもふとひとのとふまで
珍しく、発酵蔵には私と沢木くんふたりきり。ここで誰かとふたりきりになるのは今更珍しくもなんともないんだけど、沢木くんの近くにはいつも誰かがいるから、なんだか新鮮なのだった。
そして、ふたりきりなのに私が黙っている理由、といえば。
「………………」
(あ、携帯意外に普通)
「………………」
(うわ、すごい顔)
「………………」
(広告だったのかな)
理由といえば、沢木くんの百面相が面白いから、なのだった。
普段から個性の強すぎるメンバーに囲まれているせいで、必要以上に顔の筋肉の動きが激しくなってしまうのはよく分かる。樹研究室で3年やってきた私だって未だに間抜けな反応をしてしまうのだから、1年生のリアクションが大きくなるのは仕方がないと思う。しかも美里くんと川浜くんのせいで、私にとっても最近調子が狂うファクターが増えつつあるのだった。
当の一年生で、たぶん振り回されることが一番多い沢木くんは今、難しい顔をして携帯電話の小さな液晶画面と向かいあっていた。メールでも送るつもりだったのだろうかと思ったのだけれど、くるくると表情が可愛らしく動いていたかと思いきや、今は何故か、たかが広告メールのせいかどうかは知らないけど、酷く硬直した、冷えきった顔を見せていた。
「……連絡しろよ、ばか」
(え)
そして呟いた言葉はぞっとする程さびしそうで。
次の瞬間、携帯をふたつに折りかねないような姿勢をとった沢木くんに、思わず声をかけていた。
「沢木くん!」
「え、な、なんスか」
「ふたりっきりだね!」
一瞬きょとん、としたあとに、沢木くんはまたいつもの顔面運動をはじめた。しまった!て顔をして、やべぇ、て顔になって、何を言われるんだろうって不安げな表情になったのち、最後に意味もなく切羽詰まった私のおかしな台詞に目が点。
そこに追い討ちをかけるために、脱色のせいで傷んだ毛先に触れてみる。
「うわっ、予想以上!ちゃんとトリートメントしたほうがいいよ。美容院紹介しよっか?」
でも本当のことを言うと、たぶん私はさっきの沢木くんの表情を忘れたかったのだと思う。そして沢木くんにも忘れて欲しかったのだと思う。あんな顔をした男の子を、女の子は放っておけやしないだろう。
「ちょ、武藤さん、マジなにやってんスかっ!」
「頭皮マッサージ」
「とうひ……?」
「ハタチ前なのにハゲたくないでしょ?」
「はげ……!」
一言呟いて、放心したように沢木くんが大人しくなる。だらりと伸びた右手の先に繋がる携帯の液晶画面で呼び出されている番号の名前は結城蛍。マッサージをしながら、私はその、よく知らないけれど確か女の子みたいな顔をしていた男の子のことを考えてみた。
(了)