【ヘタリア】声が雑踏に消える【忠告あり】
ぐっと耐え切れない嗚咽のような音が聞こえてカークランドは男を見れば、苦しげに身体をかがめ黒髪の隙間から見える額には脂汗が浮いていた。本田菊もそうだろうがこの男もあのころの苦しみを思い反省と平和を願うのだろうか。それとも空白的なその時代の亡霊として悲しみや批判を受け止めているのだろうか。どこか遠くで鐘が鳴る音が湿気を帯びた生ぬるい風にのって聞こえてきた頃に男は、はっとどこか色づいて聞こえる吐息を漏らしついにその場に上体を折って伏せた。あまりに急な様子の変化にカークランドもあわてておどおどと無意味にあたりを見渡してからせめて楽になればと背中に手を伸ばしかけてまたそこで止まった。ここで背を撫でてやればこの男は少しは楽になれるかもしれない。けれどそれをあのプライドの高い男が許すのだ、とか、震える背中から透けて溶けそうだ、とか思っているあいだに男は小さなため息と共に一度身体を起こした。
「本当に反省と平和を願ってのことならいっそこのままでもいいんだ」
男はポツリという。
「けれど、俺には平和を願うあまり戦うことに臆病になりすぎているようにも見える。いや、だが一度混乱だの狂気だのに犯された頭じゃその判断もままならないか」
「そうか」
「でも俺は俺個人としては早く帰りたいと思っている。あの子の中に戻りたい。どこか隔離された忌まわしい記憶じゃなくて歴史の中に何度か訪れるやりすぎたときの一例でいい、禁断視していたらもう、証人がいなくなるんだ」
「証人?なんの」
「そのときを生きた生の人間。人間は死んでしまう。けれどそれだけじゃない。時間がさらに口を重くさせたものもいるだろう、忘却の庭に埋めてようやく生きているものもいるだろう、あの頃がいつだったのか分らなくなって語る言葉に意味を失うものもいるだろう、そうやって語り部がいなくなっていくと俺が正義を持っていたはずだということも、その正義が難だったと言うことも語ってくれる証人がいなくなってしまう。悲劇と狂気の物語は今も多くあるけれどそこに至る前は持っていた正義が俺にももうかすれて見えないんだ」
さらさらと原稿を読み上げるように言い放った男はまだ少しつらそうに思い瞬きを数回してまた目を閉じた。
「正義、そんなものが戦場にあるわけねぇよ」
「戦場になくとも兵士には会ったはずだ。兵士になくとも正義がないのにけんかを吹っかけて下がついてくるのか?」
「さぁな。故郷を守るためならなんだってしたさ」
「それが、正義だろう」
「奇麗事だな」
「まったくだ」
「でも、人間は自分が綺麗で正しいものでいたいから奇麗事の正義で着飾っちまうんだ」
「その、華やかな衣装を忘れた俺はただの狂人か?」
「しるかよ」
本田菊に良く似たその男は本田ならばいわないような言葉を幾つか並べて小さく笑った。ふふっと空気が抜けるだけの笑いを残してすぐ隣に座るカークランドの肩に頭を預けた。
「俺にも俺が何者か分らない。「時代」が取り残されて俺なのか、「喪失」が取り残されて俺なのか。でももうこの土地で俺のことを見てくれるものはなにもない。どのみちこの声は流れていく歴史の雑踏に消えていくんだろうな。明るい時代が俺の居場所を浄化してくれればいい。この温い風に骨粉1匙さじさえ残さずさらわれてもいい。長い片思いだったから、せめて最後にあの子の腕に抱かれて眠りたいと言うのは、声も届かぬ身分なのに過ぎた願いだと思うか」
カークランドはそれに答えないでいた。重みもなくもたれかかる男を無感動な目で見つめるだけでその答えは出せないでいた。
しばらくの沈黙を経て男がくつりと笑ってふいにその姿を闇の中に溶けるように消してしまった。そのわりに軽くなるわけでもない肩に違和感を覚えつつカークランドは屋敷を出ることにした。男はまだしばらくこの家に取り付くのだろうと漠然と思っていた。人のことがいえた立場ではないがたかが数十年前のことはそれでいてなかなか正確なことは分らないし、いつのまにか闇に屠られることも屠ることもあった。それにそれぞれの主張やら利権やら地位だの名誉だのが加わって矛盾が生まれて亀裂が走って。そうしてうまれる同胞がいることをよくしっているからこそ、溝と矛盾がなくならない限りあの男の苦悩は続くのだろう。もし願うことがあるのならば、世界の早期安定のためにもさっさといい上司とめぐり合うことぐらいか、とここ数年単位の偏頭痛対策の一環を思い描くばかりだった。
(タイトル・天野月子「聲」)
作品名:【ヘタリア】声が雑踏に消える【忠告あり】 作家名:鶏口