太陽の笑顔
ここは夢の中だろうか。
上も下も、前も後ろもない暗闇の中で三成は思った。一寸先どころか自分の手のひらさえ見えない。今自分が立っているのか、それとも奈落の底へ向かって落ちているのか、それすらわからない。ここは夢の中だろうか。或いは、地獄の釜の中か。
ため息を吐こうとして気付く。空気を吐き出したときに伴うはずの音が聞こえなかった。音さえもこの空間の中には存在しない。どういうことだろうと胡乱げに思いながら、三成は口を開いた。
ひでよしさま。
喉を震わせる。しかしいくら大声を出そうとて震えるのは声帯だけで、周囲の空気を揺らすまでには至らない。
ひでよしさま。
もう一度声を張り上げる。喉が痛かった。
ひでよしさま。はんべえさま。
しかし帰ってくるのは沈黙だった。恐ろしいまでに静寂を保ったままの暗闇に思わず慄く。逃げようと、そうでなければ明るい光を探そうと、足を動かした。しかし水を滑るように、空を蹴るように、それは無意味な動きにしかならない。どこへ進めばいいのか、それ以前にどうすればこの暗闇から逃れられるのか、そしてどうすれば敬愛する秀吉と半兵衛の姿が見えるのか、せめて声が聞けるのだろうか。切迫感がいくつも三成を責め立てる。
──まるで、罪人への罵声のようだ。
数々の切迫感が追い詰めてくることに焦りながら、しかし心のどこか冷静な部分が小さく囁く。罪人だと? 誰がだ。まさか私が罪人だとでも言うのか。ふと浮かんだ自分の思考に、三成は音にならない声で応じた。闇の中の声は三成の言葉が聞こえたように一度空気を吐き出した。それは嘲笑のように、或いは憐憫のように三成の心の奥に落ちてゆく。
「本当に自分が罪人ではないと言い切れるのか」
はっきりと声が聞こえた。無音の海の中から急に現れた言葉に瞠目する。三成に問いかけてきた声は、三成の答えを待たずして、更に言葉を重ねた。
「秀吉様は家康に殺された。半兵衛様は病で死んだ。全て貴様がもっと早く動けば回避できたことかもしれないだろう」
ちがう、と言いかけて、三成は口をつぐむ。果たして本当に違うと言い切れるだろうか。半兵衛様の体調が思わしくないことは、もっと半兵衛様に対して気を配っていれば或いはあんなに悪くなる前にわかったことではなかったのか。家康の謀反とて、自分が片時も秀吉様の近くを離れなければ回避し得たことではなかったのか。
三成の心の惑いを敏感に察知したように、声が嗤う。
「もちろん、万死に値するのは家康だ。しかし、だからといって貴様が赦されるというわけではない」
充分に罪人だろう。
最早声は完全に三成を嘲笑っていた。今さら気付いたのかと、せせら笑う。
違うと言い切れなかった。声が三成に投げた言葉は充分に三成を納得させ、また、三成自身に怒りを抱かせることを容易くした。指先が震える。怒りによるものか、自分自身の力のなさを後悔するものか、それだけはわからなかった。
自分への憤懣がふつふつと沸騰してきたことを自覚した瞬間、周囲が徐々に明るくなっていくのがわかった。ぐ、と握り締めた自分の拳が見える。力を込めすぎた所為か血管がいつも以上に浮き出ていた。秀吉様と半兵衛様の身体のなかを流れることのなくなった血が、どうして今もまだ私のなかで流れているのだ。そんなことを思いながら、じっと見つめた。
「石田三成」
その時、三成の視界に黒い靴のつま先が見えた。それをきっかけに、声の主の輪郭を視線で追ってゆく。足から腰へ、腰から胸へ、胸から首へ、首から顔へ進んでゆくにつれ、三成は自分の心が嫌な音を立てて波立っていく自覚を覚えた。黒と紫を基調とした鎧、華奢と称される劣等感を抱えた身体、銀色の髪の毛は尊敬した半兵衛と同じ色だが、毛質はまったく違う。
三成の前に立つのは三成本人だった。
「私が私の罪を赦す術はひとつしかない。自分の心と一緒に、家康を殺せ」
その言葉を最後に、声の主が消えた。同時に、一瞬にして三成の目の前が開けた。視覚も、嗅覚も、触覚も、聴覚さえが激流のように三成の身体を一気に駆け巡り、その情報量の多さに一瞬くらりと眩暈がした。
──ここはどこだろう。
漆黒に飲まれる前後の記憶が曖昧だった。いや、曖昧というよりもほとんど覚えていない。右手に持った刃の重さと、そこにまとい付いた血水の色とにおいが戦場に立っているのだと教える。ぐるりと周囲を見回すと、見慣れない山々が見えた。山と三成の間に細い煙が幾筋も空へ伸びていた。
「三成」
隣から声が響く。見ると輿に乗った大谷が三成を呼んでいた。どうしたと応じるより早く大谷が口を開く。
「あの門をくぐれば家康はすぐそこよ。本田忠勝はわれらが足止めをする。ぬしがひとりで決着をつけるがよい」
包帯が巻かれた指先が指した先を見やると、確かに立派な門が在った。その向こうに葵の紋所が刻まれた旗がいくつも立っている。その紋を見るだけで無意識にぎりりと唇を噛んでいた。
──家康を殺せ。
漆黒の言葉が三成の声で響く。
「……形部」
「どうした」
「家康は、私が殺す。──誰にも手出しさせるな」
「あいわかった。三成よ、期待しておるぞ。これも太閤のためよ」
その言葉を最後に、大谷を乗せた輿が音もなく三成から離れていった。その後ろ姿を眺めながら三成は一歩を踏み出す。砂利のこすれる耳障りな音だけが大きく耳に響く。その音は声にも聞こえた。
「君と家康くんは、きっと秀吉のいい手足となってくれると思うよ」
昔掛けられた声が脳裏によみがえる。そう言葉をかけられたのは、佐吉という名から三成という名に変えて間もない頃だったと思う。秀吉の掲げる理想を、半兵衛を筆頭に豊臣軍全員で現実のものにしようと躍起になっていた頃だ。
「私と……家康が、ですか」
三成はそのころから家康をあまり好いてはいなかった。豊臣軍の傘下になりながら、自軍を全て捧げることもなく、ただ負けたからここに身を置いているように思えていたからだ。
思わず不満げな顔をした三成を見て、半兵衛はわずかに唇を持ち上げ、瞳を細めた。
「不満そうだね」
「……いえ」
「だけど三成くん。君がどう思うかわからないけど、ふたりはいい組み合わせだと、ぼくは思うよ」
そうでしょうか、と小声で聞き返す三成に半兵衛は頷く。珍しく力強く。
「きっかけさえ掴めれば良い仲間になれるだろう。……君たちは、似ているから」
そのとき、一瞬だけ遠い目をした半兵衛の本意を、三成は未だに掴めていない。今ではもう聞き直すこともできなかった。ただひとつ聞くことが許されるならば、家康が謀反を起こした現状を見ても同じことを言えるかどうかだけ聞きたかった。
半兵衛の言葉を受けたあと、少なからずその言葉が影響していたからか、三成はよく視線だけで家康を追っていた。この城に来た当初は三成の方が大きかったはずの身長も、今ではほとんど変わらない。唯一、筋肉量だけは家康が勝っていた。
作品名:太陽の笑顔 作家名:ラボ@ゆっくりのんびり