アイマライアー
たとえば、この景色を、自分が消えてしまった後もこの人は抱えていかなければならないのだろう。遺す者と遺される者とに平等な権利など存在しないように、彼は彼なりのかなしみを抱いて、自分は自分なりのかなしみを忘れながら(彼に関わったこと、彼のもとに生まれてきたことも忘れる準備を着々と進めるのだろうか)生きていくのだ。
微かに開いたままの戸の透き間から、春の風が吹き込んでくる。その匂いが、目の前で嗚咽する男の持つそれとよく似ていることに気がついて、ああ、この匂いは桜の花のものでもなく、遅咲きの梅のものでもなくて、春そのものの匂いだった、土方さんは自分の元に春を連れてきたのだ、そんな風に思い至って、総司は自分が珍しく感傷的になっていることを笑った。
この人が一層しあわせになるために、たとえそれが裏切りでもかまわない。この先に希望はあるのだと、見え透いた絶望の向こうに足を踏み入れても、きっと大丈夫だと言い聞かせられたら。
「また、きっと逢えますから」
死後の世界で、辺りを見回しながら一人で歩く自分の姿を思い浮かべて、総司は歳三の耳もとに確信を込めた響きで囁いた。噂に聞くような川を超えて、ようやくそこにたどりついて、奇跡的にこの人のことを覚えていたとしても、私たちはもうきっと逢うことなどできやしないだろう。
でも、それではかなしすぎるのだ。今まで折り重なって生まれてきたもの全てがまるで間違いだったように済ませてしまうのはかなしすぎるから、せめていつまでも覚えているような振りをして、この人にはしあわせになってほしい。
見上げると、涙が止んで、寒気がするほどに静かな目が自分を見下ろしている。
やんわりと微笑して、総司はその瞳に指先を伸ばした。
ああ、一生わからないでも私は良かったのに。
瞳に触れ、唇に触れ、耳を確かめて頬を挟む(いずれ忘れてしまう、忘れてしまうよとあの声が囁く)。
ああ土方さん、人を愛するって。
人を愛するって、とてもせつないことです。
胸の嘆きに連動するかのように指先が瞼に触れて、あの懐かしい鼓動が再び爪の先で脈を打つ。
「だから、しあわせに」
あなたがしあわせになることは難しいかもしれない。
取り返しもつかない、私とあなたがしあわせになることは難しいかもしれない、それでも。
「しあわせになって、私にきっと逢いに来てください」
残り少ない春空のもと。
あなたに優しい嘘を、つき続けながら。