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不可触地帯

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嗚呼、どうしてか、彼はいつも僕を避けて座るのだ、人一人分のスペースを空けて、隣のソファに座り込んだ神田を見ながら、アレンはそんなことをぼんやりと考える。
薄暗い照明に照らされて、その長い黒髪が鈍い光沢を放っていた。まるで生きた沈黙のように押し黙ったまま、何を読んでいるのだろう、本のようなものを開いて顔を伏せているその横顔はどこか青白い。
「……」
何か言うべきかしばし躊躇して、だがせめて隣りに座るときに、エクスキューズミーの一言ぐらい言えないのだろうかとアレンは思った。別に自分を英国紳士だと思ったことはないけれど、仮にも見知った(しかし、別に仲が良いというわけではないことをここで強調しておきたい)仲なのだから、あえて無視してくるというのもどうだろう。神田は東洋出身だと聞いたことがあったが、極東に住む人々はみな彼のように無礼千万な性格をしているのだろうか(加えて、気に入らない奴に「もやし」とかいうひどいあだ名をつけたりするのだろうか)(まったく「もやし」だなんて一体全体どういうネーミングセンスをしているつもりなんだろう)。しかし、すぐさまその考えを否定するようにリナリーの顔が思い浮かんで、ついでにコムイの顔も思い浮かんで(嗚呼、そういえばあの2人も東洋人だった)アレンは結局、このふてぶてしさが神田という一人の人間に限ってのものであるという結論にたどり着いた。
いや、ふてぶてしいというよりはむしろ、排他的であるといった方がより正確かもしれない。何を嫌がっているのかは知らないが、神田はとりあえず自分以外の全てのものを拒絶する。まるで人と知り合ったとき、出会い頭に一発嫌味でもくらわせるような勢いで、彼は自分の周りにさっさと黒色の線で円を描いてしまうのだ。
神田と向かい会う者はみな、彼の前に歩み寄るたび、どこから聞こえるのかもしれない鋭い声で、近づくな、ときつく囁かれる。近づくな、この黒い線から中へ入るな、全身でそう主張しながら、円の中に立つ彼のにらむような視線を受け止めなくてはならなくなる。
そんな気難しい性格をしている割に、神田ともめる人の数が少ないのは、たいていの人物がそこで、もうやめた、こんな奴とは付き合っていられないと匙を投げてしまうからだ。身体ごと拒否されるなら話などできなくてもいいと、黒い円の中から全身で威嚇する神田を置いて、どこかへ行ってしまうから。
でも、とアレンは思う。
そうして置いていかれる神田の姿を見た者は。
同情などいらない、共倒れになるぐらいならば自分だけが生き抜いてやると言いながら、最終的には人のために身を投げ出してしまうその姿を見た者は、彼から離れていくことができるのだろうかと。
そんなことを考えるせいか、だからアレンはどんなに罵倒されようと、神田という存在から意識をそらすことができなかった。喉が渇きを訴えて、水を探し求めるように、視界の端にその黒いシルエットを探そうとする行為を、止めることができないのだ。
気がつけば、辺りには人影も絶えて、完璧な静寂が満ちている。
アレンの視線には気づいているはずだろうに、相変わらず神田は読書を続けていた。先ほどと光の角度が変わったせいか、今度は頬に落ちた睫毛の影がかいま見えて、その一瞬の美しさにアレンは胸を射抜かれる。
何に言い訳するというわけでもないけれど、彼から離れていくことなんて、離れていくことなど、できるものか。
ふいにそんなことを叫んで回りたいような衝動に駆られて、アレンはだって、と胸の中で言いよどんだ。
神田と向かい合うことを、途中で諦めてしまう者たちにはわからない。
その黒い円のふちの、ぎりぎりにまで踏み込んでみない者にはわからない。
途中で匙を投げてしまう者には、永遠にわからないのだ、こんなにも孤高でありながら、それでいて、神田自身が実は、ひどく、ひどく寛容であることを。 
「……神田」
気がつけば、思いがけずその名を口にしている。
微かにその耳もとが動く様子が見えたが、神田はもちろん振り返らない。
時折、自分でも驚くほどの衝動に駆られ、こうして彼に話しかけたくなることがあることをアレンは常々不思議に思っていた。満足な答えが期待できるわけでもないのに、この喉を震わせ、唇から音を出して、どうしようもなく、どうしようもなく、夕暮れに母親を捜すように(そんなことを言えば、彼が怒り出すのは目に見えていたが)神田の意識を自分の元に引きつけておきたいと切望する瞬間があるのだ。しかし、この気持ちを何と呼べばいいのか、アレンにはわからない。神田という異質な人間への好奇心か、嘘のように繊細なその美しさへの憧れであるとでも言えば良いのか。だが、そんなことは今までもわからなかったし、今もわからないし、これからもわからないのだろう。それはわからないと言いながら、どこか遠くで自分をごまかしていることにすぎないのかもしれなかったが。
ただ、口を開いた今となっては、ひとまず何かを喋らなくてはという思いがあった。
声をかけられて、返事も返さない神田の態度を責め立てるよりは先に、用事も無いのに話しかけてしまった自分の体裁をつくろわなくてはならないだろう。
「神田」
何か言おうとして、もう一度名前を呼んでも、今度はその耳もとさえ微動だにしない。それでもアレンには、神田が(今や髪が顔にかかっているせいで、その横顔もはっきりとは見えない)自分の言葉の続きを待っているという奇妙な確信があった。
狼狽するアレンの様子をからかうように、彼の細い指がゆっくりとページを1枚めくる。それは一見無造作な仕草だったが、無心を装いながらも、まるで予測不可能な事態を心待ちにするように、神田が自分の意志を探ろうと躍起になっているのがアレンにはわかった。
何もない沈黙の中で、互いの感情が激しく錯綜している。お前はどうしたい、どうしたい、何が言いたいんだと、神田と向かい会ったときに聞こえる、あの鋭い囁きの声が聞こえて、アレンは内心わからない、と叫び返した。
「……僕は」
どうしたいのかと問われれば、とにもかくにも神田に話しかけたいのだ。この喉を震わせ、唇から音を出して、どうしようもなく、どうしようもなく、夕暮れに母親を捜すように、神田の意識を自分の元に引きつけておきたいという思いに偽りはない。
ただ、それだけでは何かが足りないような気はした。ものがつかえたときのように、身の内に巣くう熱情らしきものが、あと一歩の所で溢れ出して良いものか思案しているみたいに。もう一度、お前はどうしたい、どうしたい、何が言いたいんだというあの声が脳裏に響き渡って、アレンは(今が決断の時だ)最終的に自分が神田に求めているものは何だろうと、混乱する頭の奥で考えた。
それは赦しか。いたわりか。思いやりか。
それとも、実は全く別物なのか?
それだけがわからない。嫌な夢を見て飛び起きた朝のように、それだけがわからなくて。
それだけがわかりたくて彼の方へ右手を伸ばすと、指先が髪に触れる間際、ようやく目下の本を閉じて、神田はアレンを振り返った。
「触るな」
作品名:不可触地帯 作家名:keico