不可触地帯
たった4文字の言葉は、あっという間に吐き出されて(それはいっそ悲しくなるほどにあっけなかった)、何も映していないような黒い双眸が、居場所を無くして立ち止まったままのアレンの手を見下ろしている。
虚を突かれたように手を引いて、アレンはふいに、自分は何をしていたのだろう、とそら恐ろしくなった。
まるで揺れる水際に裸足で遊ぶような、そんな朧気な美しさで、神田は今にも霞んでしまいそうなのに。そんな彼が、呪われている自分の手のひらを厭うことなんて、わかりきった当たり前の事実なのに。
「僕、は」
今さらになって拒絶されて、あまつさえ拒絶されたことに傷ついている自分が、ひどくみじめだとアレンは思った。
所詮、神田を取り囲む黒い円は、彼を守る不可触地帯なのだ。
それでも、普通の人になら、野良猫がなわばりを荒らされて怒るぐらいの感情しか抱かない神田でも、アレンに対してはもう一つ、「呪いの汚れに対する嫌悪」というマイナスのイメージがつきまとう。
ふと、望みなど無いとアレンは絶望した。
他の人ならば、努力して踏み越えられる境界も、アレンには足を踏み出す権利すら与えられていない。
アレンの愛する、彼の絶対的な美しさを守るためなら。呪われた自分が彼に触れることなど、絶対にかなわないと。
嗚呼、結局自分は神田にただ愛してもらいたいだけなのだ。
自分が話しかけるだけではなく、いつも彼からかけられる言葉を心待ちにしているし、懐かない犬を可愛がるような、そんな不器用でわかりにくい神田の誠実さが、ただ狂おしいほどに愛しくて。
突然、たまらなく切ないような思いが胸を満たして、アレンは瞑目した。
嗚呼、僕は。
僕はそう、同じだけの力強さで、愛を願っているだけ。
「僕だって」
神田はいつか、自分を切り売りするような優しさを振り回すのは愚かだと自分を罵倒してきたことがあったけれど、それならば、まるでその命を削るように人のためになろうとする彼の優しさをこそ、自分はこよなく愛していたのだ。
神田のような人種が、本当に嫌いな存在に対しては見向きもしないことをわかっていたから、高望みはしないでいようと心に決めていたのに。それでも彼が、嫌がる素振りを見せながらも、自分に声をかけてくれるから。辛辣な言葉に飾られた、慰めの言葉をかけてくれるから。
救済者になろうとするこの愚かな破壊者を、過小評価もせず、過大評価もせずに、呪われたその身そのままに、受け入れようとしてくれるから。
アレンは、ようやく全てを理解した。
それだけがわからずにいた、あの感情にも、今は名前を与えてやることができる。
「僕だって、神田を汚したいわけじゃないんです」
神田が自分を呪われていると言うなら、それならば、この世で美しいのは彼だけじゃないだろうかという気がした。かたくなに我が身を守り続けて、黒い円の内側からにらむようにうかがってくるその視線を、決して不快に思うことがないなら、むしろその奥にちゃんと存在する彼の真っ直ぐさが見えるなら、アレンは、その孤高の存在を守りたい。
「神田が、嫌に思うことは僕だって嫌だ」
早口にそう言い終えると、読書に戻ろうとしていた神田は面食らったような表情を浮かべて、再び本を閉じた。わけもわからずにいるのだろう、アレンが突然強気になった様子なので、一体どうしたものかと思案しているようだ。ところで驚いた顔になると、神田は思いの外優しい表情を浮かべるのだが、そのことに本人は気づいているだろうかとアレンは思った(普段の顔が怖すぎるとか、そういったことは正直言いたくない)。
「俺を、汚すのか?」
お前が、とアレンの言葉を反芻するように繰り返しながら、少し首を傾げて間を置いている。完璧な輪郭にふちどられたその顔に、動揺している素振りなど見られないものの、真摯に自分の言葉を受け止めようとするその様子が嬉しくて、アレンは飽きもせず彼の顔を見つめていた。
もっと、場違いだけれど、もっと。
できるなら自分のことを考えて欲しい。
呪われているとか、拒絶の言葉でもいいから(そんなことを言うと哀しい奴だと笑われるかもしれなかったけれど)そんな後ろ向きの愛情でも、神田が落としていくものなら全て拾い上げて。
この胸に抱いて離さない。
「……俺は」
ややあって、神田は考え込むように眉間にしわをよせると(だが、どちらかというと今までしわが寄っていなかったのが不思議なくらいだった)さっとアレンの左手に視線をやって、彼の額のペンタグルを見下ろした。
「呪われているから、と言った覚えならあるが」
珍しく、彼が言葉を選びながら話していることに、アレンは(失礼だろうかと思いながらも)軽い衝撃を受けた。
神田が、一歩一歩立ち止まるように、ゆっくりとした速度で話している。自分がこれから放つ言葉が、もしかするとアレンを心底傷つけて、一生駄目にしてしまうのじゃないかと配慮しながら、散歩するぐらいのさりげなさで、アレンに寄り添いつつあるのだ。
「俺はお前を、汚いと言った覚えはないぞ」
嗚呼、ほら。
僕らは大丈夫だ。
はっきりとその理由はわからないけれど、きっと、これからも大丈夫だ。
神田は至極真面目な顔をしていたが、それがおかしくて(そのわけが、おかしいことによるものだけじゃないにしろ)何故だか涙が出そうになる。
たとえ、不可触地帯に守られていても、神田がその気になれば、触れてもらうことはできるかもしれない。
こちらから触れることは赦されなくとも、向こうから触れてくれることがきっとあれば。
なんて滑稽な関係だろう、でも自分たちにはそれぐらいのスタートで、ちょうど良いのだ。
「神田」
そのまま読書に戻ろうとした彼を引き留めて、手を差し出すと、神田が面白そうな顔をして言葉を待ってくれているのがわかった。
「僕と、握手してくれますか」
自然に口をついて出た言葉に、神田が目元だけでちら、と微笑むのが見える。
それだけで安心した。これはいわば、僕たちはまだ大丈夫だと確認する、そんな儀式のようなものだけれども(小さな頃に、あれは誰とだったろうか?交わした幼い約束のことがふと頭に思い浮かんだ)それだけで言葉少なな彼が、彼自身の言葉できっぱりと言い切ってくれるような気がして。
予想通り、神田は勢いよくアレンの手を振り払うと、唇の端を引き上げて雄々しく笑った。
「呪われた奴と、握手なんてするかよ」
そうして振り払いざま、アレンの頬に指を伸ばして、恐れることなく触れようとする。
みながその前で涙を飲んだ、あの難攻不落の黒い円を超えて、彼自身の、彼自身の青白い腕が伸びてくる。
たとえば、握手ができなくても、キスから始められることだっていくらでもあるかもしれないし、もう自分をごまかさなくて良くなった今は、そうしたものの方が2人をうまくつなげるのではないかと、アレンは次に唇へと伸びてくる神田の手を、ぼんやりと見送りながらそんなことを考えた。
たとえこの手が呪われているのだとしても、彼に赦されるだけで、その悲しみや、怒りも、喜びだって共にわかちあうことができるような気がした。
だから、この手を何度でも振り払うがいい。
アレンは人一人分の隙間を割って、近づいてくる神田の姿を見上げる。
僕はもう、傷つくことなどないのだ。