善法寺伊作という男
今回はそうなるかもしれない事例なのだろう。近くで見ていて止められなかった留三郎にしてみれば、痛恨時以外の何者でもないに違いない。
――だけど、それは留三郎のせいではないよ。
口にすれば、それはなんと安い言葉だろう。
それに、彼はそんな慰めなど求めていない。でも、実際に留三郎が一緒に遊んでいたのならばともかく、あくまで通りすがっただけのこと。それにここまで心を砕ける優しさは……文次郎でなくても、きっと指摘する。
そんな風に思う傍らで、だけど、と首を振る。
「留三郎、僕はさ。忍者になるからって、すべてを捨てる。そんな必要は、まったくないと思ってる」
呟きに応えはない。それを気にせず、低い天井を見上げてまた呟く。
「文次郎は捨てろって言いそうだけど、でも彼だっていくつもの大事なものを抱えて生きる。それは人なら誰でも当たり前のことじゃないかな。……だから君が後輩を思うことも、間違いじゃないよ」
この六年長屋の天井を何人もの忍たまが見上げ、ここを巣立っていった。先達たちも、自分たちと同じようにたくさん笑い、たくさん泣いて、たくさん悩んだに違いない。
そんな心の揺らぎを忍者として間違っているという人はいるかもしれないけれど、人として正しい成長ではないか。
「うん、間違っていない。君に愛されて、後輩たちは幸せだね。怪我をした子もきっと大丈夫さ。人間、そんなにヤワに出来てないよ。それにこの学園には、優秀な先生がいるんだし」
――それにこの狭い箱庭の中で共に学ぶということは、忍者になっても人として大事なものを失わないようにするためじゃないかな。
綺麗なことも汚いことも、全部、この両手が受け止める。そんな手でも、誰かを抱きしめたりできる。抱きしめていいんだと知っている。
今はあまり実感が湧かないけれど、それはきっと幸せなことだと思う。それは、この学園から巣立って始めて実感する類のもの。
軽く凭れていた不安定な背中が、不意に加わった重みで奇妙な安定を得る。
「……伊作」
衝立を挟み、近くなった低い声。少し笑って、見えない相手を振り返る。
「僕も後輩たちが大好きだよ。もちろん、留三郎もね。君の厳しさと優しさに救われてる」
だから元気を出せと、薬草の臭いが染み付いた衝立を軽く叩く。それには、すぐに軽い衝撃でもって返される。
伝わるはずのない、でもほんのりと感じられる温もりを与えてくれる大切な友人。不器用な真っ直ぐさも、優しすぎる一面も、食満留三郎を形作る大切な要素。
それは弱さに繋がるかもしれない。弱点になるかもしれない。でも、留三郎そのものを誰が否定できる? それに救われる者は、少なくともここにひとり存在している。
「悪いな。お前も疲れているだろう」
どれくらい経っただろう。もしかしたら瞬きする少しの 間だったかもしれない。ポツリと呟かれる声に、伏せていた瞼を持ち上げる。
「……ううん、気にしないで。それに、僕は嬉しいんだ」
「嬉しい?」
「うん。みんなの役に立てていたらいい。僕にとって、それは元気の源だからさ」
――そう、僕の居場所はここにあると実感できるだろう?
だから、遠慮なく寄りかかってよ。僕はそのためにここにいる。
口には出さない、それは伊作自身が自覚する己の弱さ。
誰かの弱音の聞き役になることに安心感を覚えるなど、決して大きな声では言えない。ともすれば、悪趣味だと罵られることだろう。
「……そっか」
「そうだよ」
留三郎がどう受け取ったかはわからない。ただ、少しだけ笑う気配がして、衝立が揺れる。軽くなる背後にあわせ、こちらも預けっぱなしだった背を起こす。
再び聞こえ始めた木槌の優しい音。それを子守唄に目を閉じた。