善法寺伊作という男
「いいじゃないか。今日も明日もあさっても、どの学年も大きな鍛練はないんだしさぁ。君たちが無茶なことしない限り、僕は完全休養! だからもっとお酒だしてよ〜」
どうせ隠してるのあるんでしょう? などと絡み始める相棒を、もう一度嘆息した留三郎が引き上げる。
「戻るわ。片付け頼む」
「ああ。気をつけてな」
今日の酒宴会場は、い組長屋。は組長屋までの短くも長い距離を、留三郎はさぞ絶望する思いで歩くのだろう。
やれやれとは組のふたりを見送る嘆息は四人四色。空になった徳利と湯飲みを片付けると、軽い挨拶とともに解散になったのだが――。
翌朝、青白い顔で頭が痛いと眉をしかめる留三郎を、さすがの文次郎もからかう気にはならないでいた。
「ふたりとも、二日酔いは大丈夫?」
長屋に戻る後輩を見送った伊作が、軒先で喋っている仙蔵と文次郎に気づいて近づいてくる。
「私たちは平気さ。留三郎を気遣ってやれ」
おそらく、というより間違いなく、部屋に戻ったあとも相当の酒を飲んだのだろう。朝の留三郎の顔を見れば察しはつく。それを指摘する仙蔵の声には、苦笑が返って来る。
「留さんには、ちゃんと酔い覚ましを飲ませたよ」
伊作自身はけろりとしたものだ。けっして留三郎が酒に弱いわけではない。それ以上に、伊作が強いのだろう。
これが言いたいのかと文次郎はちらり級友に目を向けるが、意味深な視線を返される。「お前はそれぐらいの判断しか出来ないのだな」などとこちらを笑う、そういう瞳だ。
「そういう自分も労わってやれ。二日酔いだから、足元もおぼつかないのではないか?」
「ひどいな、仙蔵。ちょっと頭は痛いけど、そこまで酔っ払ってないよ」
またも穴に落ちたことを揶揄する声は、笑いでもって返される。そこは笑い話ではなかろうに。だから隠す気もない溜息がこぼれる。
「にしては、ひどい格好だ」
「……喜八郎の掘った穴に、雨水が溜まっていたらしくてね。古い穴は埋めるように言っておいてよ。一年生がはまっちゃって大変だったんだから」
臭いそうだよね、などと他人事のように汚れた袖を嗅いでみせる。それはごくありふれた日常風景ではあるが、しかし昨日の余計な話のせいで、どうもイラついて仕方ない。
落ちるのは鍛練不足だと幾度目かの嘆息は胸の中に収め、代わりに懐から手ぬぐいを出す。
「顔ぐらい拭け」
「ありがとう、文次郎。でも、井戸に行くからいいよ」
たしかに、伊作の汚れようは拭う程度でどうこうというレベルを超えている。もっとも、井戸で洗おうが拭うものは必要だろう。いいからと押し付ければ、軽く礼を言って伊作は受け取る。そんな様子を眺めている仙蔵は、本当に何が楽しいのか喉を鳴らす。
「それで。今回はどんな不運で落ちたんだ?」
「……まるで僕が、不運の星の元に生まれたような言い方は止めてくれないかな」
「保健委員会は、不運委員会と自分たちでも言っているではないか。なぁ、文次郎?」
あまり話に関わりたくないが、実際、仙蔵の言う通りなので頷く。味方はなしと判断した当人は、大げさに肩を竦めてみせる。
「穴に落ちていた一年生を助けている最中に……小平太のボールが直撃してね。彼、僕をわざと狙っているんじゃないかって思うよ」
溜息交じりのボヤキに、そうかもしれんぞなどと仙蔵の笑い声が重なる。昨日の話を考えれば、被害妄想だと言い切れないのが恐ろしい。しかし、だ。
「お前も忍たまなら、それぐらい避けんか」
「避けたくても、ちょうど両手は塞がってたし……僕が避けたら、ボールが穴にはまりそうだったしね」
穴に落ちて、その上ボールまでぶつけられたら可哀想だろう? そう続けられた言葉に、なぜか愕然とする。はっきり言えば、そこまで気の回る相手だと思いもしていなかった。伊作は、六年生の中では庇われる側の存在だから。
しかし仙蔵は、呆れたと声を上げる。
「しかしお前がボールに当たって、穴に落ちたのだろう。本末転倒ではないか」
ボールがぶつかる代わりに、伊作がぶつかってきたのだから、確かにその通り。これには伊作も頭をかく。
「でも、あの子にボールが当たらなくてよかったと思うよ。小平太のアタックはなかなか強烈だから、トラウマになりそうだもん。でも擦り傷は出来ていたから、あとで保健室に行くように言っておいたよ」
「穴に落ちると、先輩が降って来るトラウマが出来なければよいな」
茶化すことを忘れない仙蔵の言葉に、伊作もその可能性に気づいたらしくはたと顔を青くする。そんなはずがあるかと喉まででかかった言葉を飲み込んで、文次郎は青い空に向かって溜息を吐いた。
「じゃあ僕は井戸に行くから」
ようやく落ち着いた後、文次郎が渡した手ぬぐいを片手に、ひらりと手を振って伊作は歩いていく。その背を見送っていれば、強烈な視線が横から突き刺さる。
さっきまで伊作で遊んでいた仙蔵の、どうだとこちらに問う視線。それには、しかしと首を振る。後輩を庇うのは先輩ならば当然のことで、それが強さを評価するとなりはしない。
「やはり、理解できん」
繰り返せば、文次郎の意見に同意するかのように鳥が啼く。穏やかな日差しの中、子供たちの声が高く響いている。なんとも平和な光景ではあるが、あくまでここは忍術学園であり、自分たちは忍者を目指し日々切磋琢磨している。そんな環境の中、伊作が強いというのは、やはり違う気がする。さっきのボールだって、避けることが出来なければ、打ち返せばいいだけのことではないか。
「……お前は本当に表面的なものばかりで判断する」
形を追うお前らしい。などとまたも鼻で笑われては、皮肉屋な相手だとわかって相手もさすがにカツンとくる。自分では我慢屋と認識しているけれど、文次郎は案外、自分の事に関してはキレやすい。
「俺より物が見えると自惚れるな」
「事実ではないか。私はお前より、少なくとも伊作のことについては見えている」
低くなった声にも、六年間、隣を歩く男の調子は変わらない。むしろ、揶揄する色が強くなったぐらいだ。
「分りやすく話してやろう。先ほどの穴に落ちた一年を助けたのが留三郎ならば、そのまま保健室に連れて行ったな。お前ならどうする?」
唐突な質問。そういえば、擦り傷があると伊作は話していた。なるほど、後輩思いの強い留三郎ならばそうするだろう。だが、それは過保護すぎる。
「……擦り傷なら、洗ってそれで十分だろうが」
「私もそう思う。だが、は組のふたりは違うだろうな」
そういえば、伊作がひとりで保健室に行かせるとは珍しいこともあるものだ。もちろんお互い汚れているから、そのままの格好ではいられないという理由もあるだろうし、それほ大きな怪我でなかったということもあるだろう。
ただ、怪我人がいるという一点において、伊作が放置することに、ひどい違和感を覚える。
ようやく気づいたかと目で問う仙蔵に頷けば、物分りの悪い後輩を相手にするかのように、彼は肩をすくめて見せる。
「……昨日の話を覚えているか? 伊作は保健室にわざと連れて行かないのさ」
まるで作法委員会の後輩たち相手のようだな、などと、口にすれば自分が仙蔵よりもはるか下に思えてしまうから言わないが、しかしどうも的を得ない。