月夜の晩に
あれは、いつのことだったか。
どこぞの武将の屋敷であったか。
慣れぬ酒宴の席を早々に辞した三成を追ってくる足音があった。
「三成!どこへゆく?」
半歩後ろにまで駆け寄り、それからは同じ速度の歩調で追ってくる男。
名を徳川家康。
「気に食わぬことでもあったのか?」
返事を返さず、振り返りもせずに歩めども諦めることなくついてくる。
(貴様の存在こそが気に食わぬのだ…!)
月明かりのみが照らす薄暗い廊下の床板を、些か大きな足音を鳴らしながら進む。
行き先など決めていない。部屋を辞したのは酒で酔い、羽目を外した武将たちが見るに耐えなかったからだ。
そして、その羽目を外させたのは他ならぬ家康である。
(この男は秀吉さまの軍を汚す)
規律正しき豊臣勢。天下統一を目前にした今であるからこそ、気を張らねばならぬのだというのに。
家康が一言、「今日は無礼講だ」と発しただけであの有様だ。
(気に入らぬ…気に入らぬ!!)
様々な話題を交えて、親しげにつきまとう家康に三成は辟易していた。
公務ではない。家康が紡ぐ言葉は「誰某の作る朝餉は美味い」だの「どこそこの団子が一番」だの、ろくな益ももたらさぬ無駄話ばかりだ。
付き合っている暇はないし、暇があるのなら「秀吉さまの為に働け」と何度、恫喝したことか。
「なぁ、返事くらいしてくれてもいいだろう?」
後を追い続け、遂には帰宅のための馬を置いている厩にまでついてきた家康に、三成は馬の轡を握りながらギラリと鋭い視線を放った。
「屋敷へ帰るのだ」
押し殺した剣呑な声音で短く言い放てば、少しだけ不意を突かれたような表情を浮かべ、間髪入れずに陽の光を体現したかのような満面の笑みが向けられる。
「ならばワシが送ってやろう」
「…貴様、馬に乗れるのか?」
家康が馬に乗っているところなど見たことがない。移動に使うのはいつも、徳川の代名詞とも言われる戦国最強・本多忠勝である。
怪訝な面持ち――普段の苛烈な発言から、大抵の者たちが軽蔑と受け取る三成のしかめっ面を笑い飛ばして家康は言う。
「乗れん!だから、教えてくれないか?」
胸を張って言うことではない。ましてや笑顔で言うことでは断じてない。
武将ともあろう者が馬に乗れぬとは…と怒りを通り越して呆れてしまった。
少しばかり悩み、馬の鼻面を撫でて様子を確かめ――フン、と一つ鼻を鳴らす。
「付き合ってやる。乗れ」
つっけんどんな口調で馬の背を顎でしゃくり、乗馬するよう促した。
されども今度は家康からの返事がない。見やれば、裂けんばかりに眼を見開き、口もポッカリと大きく開けて間抜けな面を晒している。
「いらんのか」
三成は訝しげな視線を向けた。
一足遅れで疑心が芽吹く。
(謀ったか?)
馬に乗れぬ、とからかったのか。
思い至り、芽吹いた疑心があっという間に怒りへ変換されかける。
「あ、ああ!頼む!」
と、三成の感情の変化に気づいたのか、家康は慌てて馬に近付き、その背に飛び乗った。
急な重荷に驚いた馬が、いななきと前足を上げて暴れる。
「おい!」
怒りを露わに手綱を引く。馬上の家康はといえば目を白黒させて銀色のタテガミを握っていた。
「うぉっ、ととっ!」
振り落とされぬようバランスは取っているが拙い様子だ。
(どうやら謀られたわけではないらしい)
三成は何故だかほっと安堵の息を吐き、荒れ狂う馬を落ち着かせるために手綱を繰った。
馬はすぐに落ち着きを取り戻した。荒い鼻息も2・3度、首を叩いてやればすんなりと治まる。
その様子を見た家康がタテガミに顔を埋めて、「おお!」と感心したような声を上げた。
「手慣れているな。馬が好きなのか?」
「好き嫌いの問題ではない。仕事だ」
お前は馬の世話をしたことがないのか、と続けそうになり、危ういところで口を噤んだ。
家康は生まれながらにして武士、それも三河の跡取りである。
(馬の世話など下々の者に任せていたに決まっている)
そう認識した瞬間、急に劣等感のようなものを感じて目を逸らした。
「…乱暴に扱うな。道具ではない、生きているのだ」
はたはたと瞬きを繰り返す馬の黒目を覗きながら、言葉だけは家康へ向けて言い聞かせる。
だが、またもや返事がない。不審を覚え、酔っているのかと見上げれば、物珍しげに見下ろす視線とかち合った。
(私が言うのは意外か)
思えば、先ほどの無言もそうなのだろう。
三成は自分が他人の目にどう映るのか理解している。心情を推し量る心は持っていなくても噂が耳に入るのだ。
苛烈・辛辣・厚顔無恥――情の欠片も持たぬ冷淡な男。どれもこれも悪評ばかりでよい噂など聞こえた例がない。
だが当の三成は気にも留めぬ。主君である秀吉以外の評価など無価値極まりない。言いたい奴には言わせておけばいい。
家康の反応に対しても、別段思うことはない。珍しそうにしている、ということは話を聞いている。聞いているのならばよい――その程度の感想だ。
三成は家康へと無言のままに手綱を押し付け、地面に打ち付けられた杭から縄を外して厩を出た。
どこぞの武将の屋敷であったか。
慣れぬ酒宴の席を早々に辞した三成を追ってくる足音があった。
「三成!どこへゆく?」
半歩後ろにまで駆け寄り、それからは同じ速度の歩調で追ってくる男。
名を徳川家康。
「気に食わぬことでもあったのか?」
返事を返さず、振り返りもせずに歩めども諦めることなくついてくる。
(貴様の存在こそが気に食わぬのだ…!)
月明かりのみが照らす薄暗い廊下の床板を、些か大きな足音を鳴らしながら進む。
行き先など決めていない。部屋を辞したのは酒で酔い、羽目を外した武将たちが見るに耐えなかったからだ。
そして、その羽目を外させたのは他ならぬ家康である。
(この男は秀吉さまの軍を汚す)
規律正しき豊臣勢。天下統一を目前にした今であるからこそ、気を張らねばならぬのだというのに。
家康が一言、「今日は無礼講だ」と発しただけであの有様だ。
(気に入らぬ…気に入らぬ!!)
様々な話題を交えて、親しげにつきまとう家康に三成は辟易していた。
公務ではない。家康が紡ぐ言葉は「誰某の作る朝餉は美味い」だの「どこそこの団子が一番」だの、ろくな益ももたらさぬ無駄話ばかりだ。
付き合っている暇はないし、暇があるのなら「秀吉さまの為に働け」と何度、恫喝したことか。
「なぁ、返事くらいしてくれてもいいだろう?」
後を追い続け、遂には帰宅のための馬を置いている厩にまでついてきた家康に、三成は馬の轡を握りながらギラリと鋭い視線を放った。
「屋敷へ帰るのだ」
押し殺した剣呑な声音で短く言い放てば、少しだけ不意を突かれたような表情を浮かべ、間髪入れずに陽の光を体現したかのような満面の笑みが向けられる。
「ならばワシが送ってやろう」
「…貴様、馬に乗れるのか?」
家康が馬に乗っているところなど見たことがない。移動に使うのはいつも、徳川の代名詞とも言われる戦国最強・本多忠勝である。
怪訝な面持ち――普段の苛烈な発言から、大抵の者たちが軽蔑と受け取る三成のしかめっ面を笑い飛ばして家康は言う。
「乗れん!だから、教えてくれないか?」
胸を張って言うことではない。ましてや笑顔で言うことでは断じてない。
武将ともあろう者が馬に乗れぬとは…と怒りを通り越して呆れてしまった。
少しばかり悩み、馬の鼻面を撫でて様子を確かめ――フン、と一つ鼻を鳴らす。
「付き合ってやる。乗れ」
つっけんどんな口調で馬の背を顎でしゃくり、乗馬するよう促した。
されども今度は家康からの返事がない。見やれば、裂けんばかりに眼を見開き、口もポッカリと大きく開けて間抜けな面を晒している。
「いらんのか」
三成は訝しげな視線を向けた。
一足遅れで疑心が芽吹く。
(謀ったか?)
馬に乗れぬ、とからかったのか。
思い至り、芽吹いた疑心があっという間に怒りへ変換されかける。
「あ、ああ!頼む!」
と、三成の感情の変化に気づいたのか、家康は慌てて馬に近付き、その背に飛び乗った。
急な重荷に驚いた馬が、いななきと前足を上げて暴れる。
「おい!」
怒りを露わに手綱を引く。馬上の家康はといえば目を白黒させて銀色のタテガミを握っていた。
「うぉっ、ととっ!」
振り落とされぬようバランスは取っているが拙い様子だ。
(どうやら謀られたわけではないらしい)
三成は何故だかほっと安堵の息を吐き、荒れ狂う馬を落ち着かせるために手綱を繰った。
馬はすぐに落ち着きを取り戻した。荒い鼻息も2・3度、首を叩いてやればすんなりと治まる。
その様子を見た家康がタテガミに顔を埋めて、「おお!」と感心したような声を上げた。
「手慣れているな。馬が好きなのか?」
「好き嫌いの問題ではない。仕事だ」
お前は馬の世話をしたことがないのか、と続けそうになり、危ういところで口を噤んだ。
家康は生まれながらにして武士、それも三河の跡取りである。
(馬の世話など下々の者に任せていたに決まっている)
そう認識した瞬間、急に劣等感のようなものを感じて目を逸らした。
「…乱暴に扱うな。道具ではない、生きているのだ」
はたはたと瞬きを繰り返す馬の黒目を覗きながら、言葉だけは家康へ向けて言い聞かせる。
だが、またもや返事がない。不審を覚え、酔っているのかと見上げれば、物珍しげに見下ろす視線とかち合った。
(私が言うのは意外か)
思えば、先ほどの無言もそうなのだろう。
三成は自分が他人の目にどう映るのか理解している。心情を推し量る心は持っていなくても噂が耳に入るのだ。
苛烈・辛辣・厚顔無恥――情の欠片も持たぬ冷淡な男。どれもこれも悪評ばかりでよい噂など聞こえた例がない。
だが当の三成は気にも留めぬ。主君である秀吉以外の評価など無価値極まりない。言いたい奴には言わせておけばいい。
家康の反応に対しても、別段思うことはない。珍しそうにしている、ということは話を聞いている。聞いているのならばよい――その程度の感想だ。
三成は家康へと無言のままに手綱を押し付け、地面に打ち付けられた杭から縄を外して厩を出た。