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藤ノ宮 空雅
藤ノ宮 空雅
novelistID. 3025
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月夜の晩に

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 パカリ、パカリ、と。
 闇を湛えた木々の間を蹄の音が通り抜けてゆく。

 屋敷の周辺は静かであった。
 さもありなん、数刻前までは戦の渦中にあった土地なのだ。
 この屋敷も住処としてというより一つの陣として用いられていた。山の中腹に建てられており、周囲には民家さえも見当たらない。
 よって人影があろうはずもない。ましてや草木も眠る真夜中であるなら、なおの事。

 だからこそ、三成は乗馬の練習に付き合った。

 豊臣傘下の武将でありながら馬に乗れぬなど恥。
 だが、一介の将が馬に乗れぬというのはそれ自体が恥だ。
 間抜けな練習風景を晒された日には兵の士気も落ちる。
 ゆえに三成は「練習しろ」と恫喝することなく、人目に触れない今宵のうちに自ら教えてやることにしたのだ。

 理由を問うた家康にそう告げれば、
「なるほど。お前らしい」
 と、得心がいったというように頷いた。
 これに対しては三成の方が驚かされた。
 許容されると思っていなかったのだ。てっきり、口やかましく絆の何たるかを説かれると思っていた。
 他人を思いやる心。家臣が主に尽くすのではなく、互いに助け合うことが望ましい。
 天下を治めるは力ではなく――人と人を繋ぐ絆なのだ、と。
「…否定せんのか」
 轡から連なる縄を引き、白壁の角を曲がりながらポツリと問う。
「おっ…と、とと…」
 返事の代わりに届いた焦った声に足を止めた。
 振り返り、馬上を見上げれば急な旋回にバランスを崩して、鞍からずり落ちかけた家康が照れたように笑っている。
「なにか言ったか?」
「…いや」
 一度口にしたことを煙に巻くなど自分らしくない。だが、もう一度問いを繰り返すには気が殺がれてしまった。

 家康の笑みを見ていると思い出す。
 昔、馬の世話をしていた頃――まだ戦場を駆ける以前のことを。
『乱暴に扱ってはいけないよ。道具ではないのだから』
 馬の背に届くか否かの背丈であった三成を抱き上げてフワリと笑う白き髪の人。
 三成に馬術を教えたのは豊臣軍最高の軍師と名高い、竹中半兵衛である。

 暖かい春の日差しの中、半兵衛が縄引く馬に乗り、庭を回る。
 廊下を通りがかった秀吉に気づき、慌てて下馬しようとして落馬しかけた。
 途端、力強い腕で帯を掴まれて鞍の上に戻される。
 あまりの非礼に泣きながら謝り、
『泣くことは何もない。佐吉よ、強き者となれ』
 頭を撫でてくれた大きな掌の温もり。

 思い出す。
 幼き日、手を引かれたことを。
 甦る。
 柔らかな光。安らぎに満ちた穏やかな日々。

 今も鮮やかに焼きついている。
 大切な記憶。

 これが、主に尽くす理由だろうか?
 これを、絆と呼ぶのだろうか?


 月明かりの下、クルクルと白壁の屋敷の周りを歩む。
 徒然と取り留めなく考えを巡らせているうちに、いつの間にか結構な時間が経っていたらしい。
「うむ。三成、慣れたぞ」
 馬上の家康が満足げに頷き、自らの手で手綱を引いて馬の足を止めた。
「そうか」
 特になんの感情も含まず、三成も小さく頷いた。
 そのまま屋敷の入り口へと踵を返す。自身の屋敷に帰るにはこの陣屋敷の門まで戻らねばならない。
 旋回させてクイ、と縄を引く。だが何故だか――馬はピクリとも脚を動かさない。
「お、コイツもわかっているようだな」
 明るい声が馬上から落ちる。
 見上げれば月を背負った家康が手綱を引いて手招いていた。
「さぁ、準備は万端だ。乗れ、三成」
「…何の準備だ?」
「送ると言ったろう?」
 家康はさも当然といったような顔で首を傾げた。
 その顔を見た途端、何か、よくわからない苛立ちが三成の中に芽吹いた。
 送らせるために教えたのではない。そう思われるのは心外だ――だが、何故苛立つのか。他人にどう思われようが関係ないはずなのに。
(気分が悪い)
 どう悪いのか、具体的にはわからない。喩えるなら潰れた豆腐のような、釈然としない感情が胸の奥に広がっている。 
「いらん」
「なぜだ?」
 即座に返った疑問に眉を寄せる。
 改めて問われても困るのだ。ただなんとなく、としか答えようがない。三成は自分の中に生まれた奇妙な感情を持て余している。得体の知れぬものを遠ざけようとするのは人間、いや動物の本能ではないだろうか?
(私は家康に怯えているのか?)
 じっと家康の目を見つめて自問した。
(恐怖は、感じない)
 三成を眺める家康の目はまるで無垢な子供のように真っ直ぐだ。
(ならば、これはなんだ?)
 恐怖ではないのに居心地が悪い。ソワソワと気分が落ち着かない。
 家康は黙って答えを待っている。急かすでもなく、口出しもせずに…。



作品名:月夜の晩に 作家名:藤ノ宮 空雅