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欲しくなかったもの

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地下鉄で帰るという室生と、階段の上で別れる。
静雄はさきほどの会話を反芻する。

「ひとまず安心したわ。ほんと幸せそうで」
「あいつが幸せだと、世の中平和な気がするだろ」
「な、静雄君さ、あいつ泣かせるなよ」
会話というか、室生が一方的に喋っているのに、相槌を打つだけだったが。
「わかんねぇっすよ。今も、割と迷惑ばっか、かけてますし」
「あいつが迷惑くらいで泣くかよ。お前さ、すげぇ愛されてるって自覚ねぇの?」
「え」
「トムが、あの、田中トムが、中高時代氷の貴公子と呼ばれた男が、お前にメロメロになってんのに?」
「氷の貴公子て」
誰が呼んだんすか、と思わず吹き出す。
「うん、それは今考えたんだけど」
「ダサいっすねー」
素面に見えたけれど、室生も実は結構酔っぱらっていたのかもしれない。
「似たようなことは言われてたよ。来る者拒まず去る者追わずでクールでさ。トムが原因でもめ事起きたら、んじゃ俺いなくなれば解決じゃんつって自傷したりさ」
「自傷」
「あれはマジで怒ったけど。怒ったらなんでかそういう流れでやっちゃったけど。まああいつ複雑だからさ。色々あったんだろ、ほかに事情がさ」
トムが言ってないなら、俺からいうことじゃない、と室生は言った。
「・・・・・・1回だけ?」
「セックスはな。自傷はしらね。その後さすがに気まずくなったから」
「・・・そう、だったんすか」
「怒るなよ?今は違うだろ。帰ってから聞くとかやめとけよ、ほんと重たいからなあいつ」
「でも」
「軽いノリで言うんだよ。そういう性格だよ。でもお前が傷ついたらさ、あいつが余計に落ち込むだろ」
「・・・ムロー先輩って、いい人っすね」
「だろ。やっちゃったけどな」
「それはマジむかつくんですけど。ムロー先輩のチンコ潰したいほどむかつくんですけど」
「おおお」
「美穂さん?がかわいそうなのでやめときます」
「たすかったー。よかった妻帯者で。マジ怖ぇなお前。まあ、トムにはちょうどいいのかもな、お前みたいなので」
「っすかね」

トムの左手首の内側に、それっぽい傷があるのは知っている。
どうしたんですかと静雄が聞いた時、トムは中二病で、と言って笑った。
やったのは高校ん時だけど、と。重たさを感じさせないいつものノリで。
だから静雄も、ことさら重くとらえることはしなかった。
中学の時から吸っていた煙草と同じように。
駄目じゃないっすか、と少しばかり真面目に言っただけだ。
今、静雄の前を歩くトムは、アルコールが程よく回って、機嫌もよさそうに見える。
「静雄ー、家で飲みなおす?んなら酒補充しねぇと無いんだけどうち」
「もう、今日は飲まない方がいいんじゃないっすか。トムさん、足ふらついてる」
「えー。まっすぐ歩いてるべ。道が傾いてんじゃねぇの」
「酔っ払い」
「お前は、今日はあんまし酔ってないのな」
「セーブしてましたから。うち帰ったら聞きたいこともあったし」
「・・・・・・あー。聞きたいの?」
「聞きたかったけど、まあ、いいです。もう」
「いいのかよ」
「何か、ほんとに一々気にしてたら身がもたないって」
「・・・室生なんか言ってた?」
「なんかいいこと言われましたね。いい人ですね、あの人」
「だろ。いい奴なんだよ。惚れるなよ」
「俺はトムさんで手一杯なんで。トムさんこそ、ヤケボックイ?とかダメっすよ」
「ねぇなー。俺も静雄だけで十分」
本当に?とは、もう静雄は聞かなかった。
車道の方へよろけるトムの腕を引いて、手首をゆるくつかむ。
その下の傷を思う。
トムはつかまれた手を持ち上げて、何これ、とぶらぶらと振る。
「肩組んだら足浮くし、トムさん」
「おっ前・・・言ってはならんことを・・・・・・!」
「往来でお姫様抱っこしてもいいんならそうしますけど」
「阿呆か、歩けるっつーの。つかせめておんぶにして」
「酔っ払いに選択権ありません」
静雄のつかんだ手首に、トムの過去がある。
静雄はそこに、噛み付きたいとも、口づけたいとも思う。
どうするのがやさしさだろう、と思う。
幸せそうに見える、と言われた。
幸せだ、少なくとも、自分は。
時々どす黒いもやもやしたものに浸食されることはあるけれど。
トムは、静雄に手首をつかまれたまま、どしんと体をぶつけて、なにがおかしいのかけらけらと笑っている。
静雄は凭れかかってくる体を受け止めて、確かに、世の中が平和な気がする、と思った。





作品名:欲しくなかったもの 作家名:かなや