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口の中で鳴り響く携帯電話の呼び出し音を聞きながらトムは考えた。しかし考えるまでもなかった。冷たく黒々と流れる河に飛び込みたくなければ、橋の欄干に引っかけた右手を離すわけにはいかない。トムは銃に伸ばした左手をもう少しだけ伸ばして、布で包んだそれをそっと押しやった。グッバイマイスウィートバレルズ。ぼちゃん、と音がしたのと同時に自分の体を引き上げ、通話ボタンを押した。
「ハロー?」
 すると狂ったような怒声が耳を直撃した。
「捨てるな!」
 トムは顔から電話を遠ざけつつ、「はっ?」と大声で返事をした。まずはどこの誰かを名乗ってから主語と述語の揃った会話をと求めたつもりだったが、そいつは妥協する気がさらさらないのかなおもがなり立てた。
「捨てるんじゃない! 捨てちゃだめだ! 捨てたらぶっ殺すぞ!」
「何だって?」
「捨てるんじゃない!」
「何の話だ?」
「だから捨てるなと言ってるんだこのデブ! お前には耳がないのか!」
「ちょっと待て」これは聞き捨てならなかった。「お前こそ目がないのか? 俺のどこが太ってるっていうんだ? 俺の腹は見下ろす限りフラットで――」
「ファック!」
 憤怒と絶望のファックを合図に戦争が勃発したらしかった。いっぱいに皿を乗せたテーブルをひっくり返すような破壊音と、人の肉を殴るような鈍い打撃音がした後、ファックとシットの輪唱が続いた。まさかまたまた流血沙汰じゃないだろうな、銃声も人殺しももううんざりだ、とトムが電話を切ろうとしたとき、話者が変わった。
「トム、俺だ」
 比較的落ち着いていたその声には聞き覚えがあった。「ソープか?」
「そうだよクソ野郎」
「ってことはさっきのはエディかベーコンだな。どこのサーカスの猛獣かと思ったよ。で、どうして俺がクソ呼ばわりされなきゃいけないんだ?」
「お前がクソでデブだからだろ」
「おいお前らいい加減にしろよ。俺はどっこもデブなんかじゃない。何なら全員の前で体重計に乗ってやってもいい、体脂肪も計れるやつに――」
「お前がデブかどうかはどうでもいいんだ!」
「言い出したのはそっちだろうが! どうでもいいなら言うな! ちくしょう、俺をバカにするためだけにかけてきたんなら切るからな」
「待て!」ソープがヒステリックに叫んだ。「この役立たず、脳味噌まで脂肪なんじゃないだろうな」
「おいそこのクソッタレ――」トムは負けじとわめいた。「俺はファッキン役立たずなんかじゃない。断じて違う。その言葉は俺がデブじゃないのと同じくらい的外れだ。今すぐその腐った脳味噌を更新しろ。いいか、俺はついさっき任務を完了したんだ。お前にだって耳はついてるだろソープ? 他の奴にも伝えてくれ。俺たちの完全犯罪は成立したぞ」
 長い長い沈黙があった。
 電波が悪いのかもしれない。せっかくの賞賛を聞けなかったのは残念だが、イギリスでは日常茶飯事なので仕方ない。トムが今度こそ電話を切ろうとしたら、
「……ファック」
 先ほどよりいささか絶望寄りのファックが聞こえた。しかし開戦の火蓋は切って落とされなかったらしく、哀切に満ちた呻き声と、もしかしたらすすり泣きと、ジーザスクライストの合唱がそれに続いた。何が起こっているのかさっぱり理解できなかった。まさかあの銃が俺たちの無罪を証明する証拠へと変身を遂げたのか? そんなはずはあるまい。大体銃があろうとなかろうと、無罪放免された身なのである。間抜けな警察が真相にたどり着くことなど天地がひっくり返ってもありえない。
「トム」
 がさがさと掠れていたが誰かは分かった。
「エディか?」
「俺以外の誰がいるっていうんだこの間抜け」
「エディ」トムはすんでのところで怒鳴るのをこらえた。「俺は間抜けじゃないし、心が狭くもない。だけどいくら寛容な俺にだって我慢の限界というものはある。これ以上お前らがいわれのない罵倒を続けるつもりなら――」
「間抜けを間抜けと言って何が悪い」
「何だと?」
 誰かが間抜けだろうとデブだろうと、真実を指摘するのは罪じゃないんだとエディは断言した。それが真実ならなとやり返し、車に乗り込むと怒りのままにドアを閉め、キーを回した。音を拾ったのか、何をしてる、とエディが言った。トムは携帯電話を肩で挟み、ギアに手をかけた。決まってるだろ、今からお前らを殴りに行くんだ。
「その必要はない。そこを動くな」
「は?」
 ぶおん、とエンジンが唸った。サイドブレーキを下ろしてアクセルを踏めば今すぐ出発できる。エディはなおも言った。
「そこを動くな」
「だから」
「動くなといったら動くな」
「――いい加減にしろ」
 ついに忍耐が切れた。既に切れていたという見方もあるだろうが、改めて切れた。
「こんなクソ寒い橋の上に何だっていなきゃいる必要があるんだ? 少なくとも俺にはそんな理由は見出せないし、そんなにロンドンブリッジが好きならフォールダウンするまで勝手にしがみついててくれ。俺は御免だ。このところの騒動でえらく疲れてて、お前らの冗談に付き合ってられるほどの元気はないんだ。さっさと帰って酒の一杯でもひっかけて」
「トム!」
 エディの甲高い声が耳に突き刺さった。
「お前がどう思うかなんて関係ないんだ、ファッキンシット。俺たちが行くまで一ミリたりともそこを動くな。分かったか」
作品名:エンドロールの後 作家名:マリ