共犯者はじめました。
郊外に立つ石造りの単身者用スタジオアパルトメントに住むフランシス・ボヌフォワは、ここ最近睡眠不足に悩んでいた。
スタジオアパルトメントは一つ一つが独立したワンルームであり、フラットシェアやベッドシットなどと違い共有するスペースは屋外の廊下ぐらいなのだが、しかし残念なことにフランシスの住むそこは少々築年数が古く防音機能が低かった。つまり、隣の部屋の物音が彼の睡眠を邪魔しているのである。
彼の部屋の隣に住むのは、彼と同じく一人身の男だった。これまであまり交流した事はないが、時折すれ違う姿からは20代後半といった辺りに見えた。身長はフランシスより若干高かった。体つきは細身ではあったがしっかりしていて、特に肩幅が広い。おそらくなにかスポーツか武道をやっているもしくはやっていたのだろうと思われた。
男の名をフランシスが知ったのはまったくの偶然の出来事で、たまたま朝出勤する時間に廊下ですれ違い、階下からおそらく彼の同僚か友人が彼を呼ぶのを聞いたのである。『ギルベルト』それが彼の名であるらしい。どうやらドイツ系、ゲルマン系の出であることは知れた。言われてみれば、彼はゲルマン民族らしい顔立ちだった。彫りが深く、常に眉間に皺のよった吊り上った目はナイフのように鋭かったし、身長や体つきも骨からして堅そうだった。
海を隔てた英国の地とはいえ、この時代にゲルマン系の人種はさして珍しくもない。ただ、こんな交通の便の悪い古臭いスタジオアパルトメントに住んでいるということが、初めの頃フランシスには新鮮に映った。フランシスの周囲のドイツ系の面々は、どちらかというと交通の便など実用に便利な条件を重視するものが多かったからだ。
ギルベルトは、廊下や部屋の前でフランシスに会ってもちらりと一瞥を向けるだけで声をかけることもなく、また決して部屋に人を呼ぶような事もなかった。友人らしき人物がギルベルトを呼びに来ることはあっても、彼らが隣の部屋に泊まったり中で寛いだりすることは、フランシスが知っている限りにおいて一度も無かった。
人付き合いの良い方ではないのだろう。
フランシスは自身も表向きはノリのいいラテンであってもプライベートにおいては若干そういうタイプであることをきちんと認識していたので、彼がそういう人間であることに何らの悪感情も持たなかったし、むしろ必要最低限の接触しかないお互いの距離を隣人として最適だと考えていた。そうして、その感想は覆ることはなかった。二ヶ月ほど前のある日までは。
その日は、前夜に昨今巷を騒がしている怪盗がはじめて予告を違えた―つまり盗み損ねた―と言う事件があったおかげで、朝からひどくざわざわとしていた。
フランシスは久々の休日だったので、前夜早くに眠りにつきいつもよりも遅くに目を覚ました。彼はよたよたと日々の習慣に従って電気コンロにケトルを掛け、コーヒーを淹れた。寝巻き姿のまま玄関先に落ちている新聞を拾い上げて開くと、前夜の事件がでかでかとセンセーショナルに書き立てられている。
殺人でもなく事故でもなく麻薬でもない、時代錯誤な怪盗の活躍が一面に取り上げられている辺りロンドンはまだ平和なのだろう。一定の間を開けては何度も繰り返される怪盗劇を、一種の娯楽映画のように楽しんでいる人も多い。事実、一部の新聞ではその怪盗―見たものがいるのか知らないが、【ベビーフェイス】とあだ名される―は、どこかの映画俳優かアイドルスターのような扱いだ。連日正体を巡って堂堂巡りの議論が無為に繰り広げられている。
フランシスは手ずから入れたお気に入りの香り高いコーヒーを啜りながら新聞を捲った。彼はベビーフェイスを英雄ともなんとも思っていなかった。かといって警察を積極的に応援するでもない、いわゆる傍観者であった。元々権力機構は民衆から反感を買うものであり、それを小気味良くからかう者がヒーローとなるのは昔からのパターンだし、ましてフランシスは生粋のフランス人であるゆえに、イギリス警察に同情する気は生まれたときから持ち合わせていなかった。さらにいえば、盗みはしても誰一人として傷つけず、また盗まれるのは国家所有の美術品なり悪名高い資産家の裏コレクションという、市民が直接の被害を被らない犯罪者を、無責任に煽り立てたくなる気持ちもわからないでもない。
わざわざ予告状を出し怪盗を気どるケレン味の強いベビーフェイスは、そのいっそ無邪気なほどの遊び心によって市民からの人気は高かった。
今回の失敗についても、新聞に書かれているところに寄れば『彼は盗めたが、わざと盗まなかった』のだという。少々怪盗側を贔屓目に見すぎている感も拭えないが、しかし実際に警察は一度ベビーフェイスの陽動に引っかかって怪盗のターゲットである絵画から目を離していた。その状況で何故絵画が盗まれなかったかと言えば、どうやらその場にたった一人雇われの私立探偵が残っていたらしいのである。
らしい、と言うのはその探偵の素性が明らかになっていないからだ。どういう理由でか探偵は深くを語らずふらりと消えた。新聞ではその探偵はベビーフェイスの顔を見ているのではないかとして、探偵を特定する手がかりを探していると広告までもうっていた。
有力な情報提供者への謝礼金まで書かれていたが、フランシスはさしたる興味も持たなかった。頭の中ではブランチとして近くのカフェにでも行こうかなどと考えながら、ただ機械的に新聞の活字を目で追っていた。
「…?」
その流れるような視線が、とある一点でふと止まった。
それは記事に使われている一枚の写真だった。現場である美術館の入り口ホールで記者達の質問に答えている警察当局者の姿が映っているものだ。なんと言うことも無い写真だったが、果たしてフランシスはその当局者の後方に小さく写る男の姿を見つけた。
短く刈った銀にも見えそうな薄い金髪、広い肩幅、捲り上げたシャツの袖をアームサスペンダーで留めたその横顔は、はっきりとは見えないまでも見覚えのあるものだった。
「…ギルベルト?」
思わずと言ったように呟く。おざなりに広げていた新聞をテーブルの上に広げ直し、写真を覗き込んだ。写真の男は、フランシスの隣に住むギルベルトであるように見えた。交流は少ないとはいえ、長く隣同士に住んでいれば目に付くものも当然ある。彼が警察官であるような素振りはまったく無かった。定期的に出勤している様子もなく、また時折彼を呼びに来る「友人」も一癖も二癖もありそうなおよそ真っ当な警官の友人とは思えない者が多かった。何より、この写真の中でギルベルトは制服を着ていない。
もしかして、彼は探偵なのではないだろうか。
件のベビーフェイスに会った探偵かどうかはともかく(およそ有名な怪盗の現場ならば探偵が複数人いる可能性もあるだろう)、警官でもなく取材中のライターといった様子でもないともなれば怪盗の現場にいる人物の職業はおのずと狭まる。探偵である可能性は高いように思われた。
スタジオアパルトメントは一つ一つが独立したワンルームであり、フラットシェアやベッドシットなどと違い共有するスペースは屋外の廊下ぐらいなのだが、しかし残念なことにフランシスの住むそこは少々築年数が古く防音機能が低かった。つまり、隣の部屋の物音が彼の睡眠を邪魔しているのである。
彼の部屋の隣に住むのは、彼と同じく一人身の男だった。これまであまり交流した事はないが、時折すれ違う姿からは20代後半といった辺りに見えた。身長はフランシスより若干高かった。体つきは細身ではあったがしっかりしていて、特に肩幅が広い。おそらくなにかスポーツか武道をやっているもしくはやっていたのだろうと思われた。
男の名をフランシスが知ったのはまったくの偶然の出来事で、たまたま朝出勤する時間に廊下ですれ違い、階下からおそらく彼の同僚か友人が彼を呼ぶのを聞いたのである。『ギルベルト』それが彼の名であるらしい。どうやらドイツ系、ゲルマン系の出であることは知れた。言われてみれば、彼はゲルマン民族らしい顔立ちだった。彫りが深く、常に眉間に皺のよった吊り上った目はナイフのように鋭かったし、身長や体つきも骨からして堅そうだった。
海を隔てた英国の地とはいえ、この時代にゲルマン系の人種はさして珍しくもない。ただ、こんな交通の便の悪い古臭いスタジオアパルトメントに住んでいるということが、初めの頃フランシスには新鮮に映った。フランシスの周囲のドイツ系の面々は、どちらかというと交通の便など実用に便利な条件を重視するものが多かったからだ。
ギルベルトは、廊下や部屋の前でフランシスに会ってもちらりと一瞥を向けるだけで声をかけることもなく、また決して部屋に人を呼ぶような事もなかった。友人らしき人物がギルベルトを呼びに来ることはあっても、彼らが隣の部屋に泊まったり中で寛いだりすることは、フランシスが知っている限りにおいて一度も無かった。
人付き合いの良い方ではないのだろう。
フランシスは自身も表向きはノリのいいラテンであってもプライベートにおいては若干そういうタイプであることをきちんと認識していたので、彼がそういう人間であることに何らの悪感情も持たなかったし、むしろ必要最低限の接触しかないお互いの距離を隣人として最適だと考えていた。そうして、その感想は覆ることはなかった。二ヶ月ほど前のある日までは。
その日は、前夜に昨今巷を騒がしている怪盗がはじめて予告を違えた―つまり盗み損ねた―と言う事件があったおかげで、朝からひどくざわざわとしていた。
フランシスは久々の休日だったので、前夜早くに眠りにつきいつもよりも遅くに目を覚ました。彼はよたよたと日々の習慣に従って電気コンロにケトルを掛け、コーヒーを淹れた。寝巻き姿のまま玄関先に落ちている新聞を拾い上げて開くと、前夜の事件がでかでかとセンセーショナルに書き立てられている。
殺人でもなく事故でもなく麻薬でもない、時代錯誤な怪盗の活躍が一面に取り上げられている辺りロンドンはまだ平和なのだろう。一定の間を開けては何度も繰り返される怪盗劇を、一種の娯楽映画のように楽しんでいる人も多い。事実、一部の新聞ではその怪盗―見たものがいるのか知らないが、【ベビーフェイス】とあだ名される―は、どこかの映画俳優かアイドルスターのような扱いだ。連日正体を巡って堂堂巡りの議論が無為に繰り広げられている。
フランシスは手ずから入れたお気に入りの香り高いコーヒーを啜りながら新聞を捲った。彼はベビーフェイスを英雄ともなんとも思っていなかった。かといって警察を積極的に応援するでもない、いわゆる傍観者であった。元々権力機構は民衆から反感を買うものであり、それを小気味良くからかう者がヒーローとなるのは昔からのパターンだし、ましてフランシスは生粋のフランス人であるゆえに、イギリス警察に同情する気は生まれたときから持ち合わせていなかった。さらにいえば、盗みはしても誰一人として傷つけず、また盗まれるのは国家所有の美術品なり悪名高い資産家の裏コレクションという、市民が直接の被害を被らない犯罪者を、無責任に煽り立てたくなる気持ちもわからないでもない。
わざわざ予告状を出し怪盗を気どるケレン味の強いベビーフェイスは、そのいっそ無邪気なほどの遊び心によって市民からの人気は高かった。
今回の失敗についても、新聞に書かれているところに寄れば『彼は盗めたが、わざと盗まなかった』のだという。少々怪盗側を贔屓目に見すぎている感も拭えないが、しかし実際に警察は一度ベビーフェイスの陽動に引っかかって怪盗のターゲットである絵画から目を離していた。その状況で何故絵画が盗まれなかったかと言えば、どうやらその場にたった一人雇われの私立探偵が残っていたらしいのである。
らしい、と言うのはその探偵の素性が明らかになっていないからだ。どういう理由でか探偵は深くを語らずふらりと消えた。新聞ではその探偵はベビーフェイスの顔を見ているのではないかとして、探偵を特定する手がかりを探していると広告までもうっていた。
有力な情報提供者への謝礼金まで書かれていたが、フランシスはさしたる興味も持たなかった。頭の中ではブランチとして近くのカフェにでも行こうかなどと考えながら、ただ機械的に新聞の活字を目で追っていた。
「…?」
その流れるような視線が、とある一点でふと止まった。
それは記事に使われている一枚の写真だった。現場である美術館の入り口ホールで記者達の質問に答えている警察当局者の姿が映っているものだ。なんと言うことも無い写真だったが、果たしてフランシスはその当局者の後方に小さく写る男の姿を見つけた。
短く刈った銀にも見えそうな薄い金髪、広い肩幅、捲り上げたシャツの袖をアームサスペンダーで留めたその横顔は、はっきりとは見えないまでも見覚えのあるものだった。
「…ギルベルト?」
思わずと言ったように呟く。おざなりに広げていた新聞をテーブルの上に広げ直し、写真を覗き込んだ。写真の男は、フランシスの隣に住むギルベルトであるように見えた。交流は少ないとはいえ、長く隣同士に住んでいれば目に付くものも当然ある。彼が警察官であるような素振りはまったく無かった。定期的に出勤している様子もなく、また時折彼を呼びに来る「友人」も一癖も二癖もありそうなおよそ真っ当な警官の友人とは思えない者が多かった。何より、この写真の中でギルベルトは制服を着ていない。
もしかして、彼は探偵なのではないだろうか。
件のベビーフェイスに会った探偵かどうかはともかく(およそ有名な怪盗の現場ならば探偵が複数人いる可能性もあるだろう)、警官でもなく取材中のライターといった様子でもないともなれば怪盗の現場にいる人物の職業はおのずと狭まる。探偵である可能性は高いように思われた。
作品名:共犯者はじめました。 作家名:あめゆき