共犯者はじめました。
まさか自分の隣の部屋に探偵がいるとは思わなかった。しかもこの現場にいるということは、彼はベビーフェイスを追っているらしい。へぇ、とフランシスは小さく感心した。彼が探偵であるならば、ベビーフェイスに会ったらしき探偵のことももしかしたら心当たりがあるのではないだろうか。機会があったら聞いてみても良いかもしれない。密告するつもりはないが、話として面白そうではある。
フランシスは素っ気無い隣人の意外な一面を知れた事に小さな満足を覚え、しかし元来親密な人間関係を多く持ちたいと思うタイプではなかったので一旦はこの事をすっかりと忘れた。ぬるまってきたコーヒーを飲み干し、新聞を丁寧に畳む。フランシスの思考は、この時点で既に本日のブランチのメニューに移り変わっていた。
ざっくりとしたニットに袖を通し、身支度を整える。普段であればきちんとワックスで整えていく髪も、休日なので軽く櫛を通すだけに留めた。予定の全く無い休日は、フランシスにとって本当に久しぶりだった。仕事が忙しいのは会社の事業が軌道に乗っていることの現れであるからそれ自体は喜ばしいのだろうが、かといって休みがまるで取れないのはやはり辛かった。
ようやく仕事に一段落がついて手に入れた休みを、フランシスはのんびりと過ごすことに決めていた。忙しさを理由に後回しにしていたことも幾つかあったが、それを片付けるよりもまずは休養を優先する。
通り二つ向こうにあるコーヒーの美味いカフェに行こう。途中本屋で買いそびれていた小説を買って、まだ少し寒いが天気もいいし、オープンテーブルでのんびり過ごすのも悪くない。
財布と部屋の鍵を持ってフランシスは部屋のドアを開けた。しかし、彼は部屋から出ることが出来なかった。彼の部屋の目の前の廊下には、行く手を阻むようにバリケードが出来ていた。
フランシスはぽかんと口を開けた。
なに、これ。
一度扉を閉め再び開ける。どうやら扉の前にあるものは目の錯覚や夢の続きなどではないらしい。
一体、誰がこんないたずらを。
折角の休日に水を注され、フランシスは落胆した。このアパルトメントの近くには学校がなく通学路にもなっていないはずだった。わざわざそういう場所を選んだのだから当然だ。
こんないたずらをするようなティーンエイジャーと関わりたくなかったから選んだというのに。我侭と愉悦の権化のような子供達は、とうとう近隣だけに飽き足らずこんなところにまでも足を伸ばすようになったのだろうか。
フランシスは気が重くなるのを感じたが、とにかく外へ出るためには扉の前のそれをどうにかしなくてはならない。彼は行く手を塞いでいる物…あわよくばその場にいるかもしれないいたずらっ子の顔を確認しようと動かない扉をがたがたと揺らした。
ドアの前に置かれているものはとても大きな物のようだった。そのものの向こう側から光が来るせいで逆光になりぱっと見ではわかりにくかったが、良く見ればフランシスはすぐにそれがなんであるかを理解した。
旅行鞄だ。
いわゆるキャリーケース、トランクと呼ばれる長期旅行によく使われるあの車輪付きの大きな鞄である。それが実に10、単身者用アパルトメントの狭い廊下を埋めるように並べ積まれ置かれているのであった。
フランシスは見たことも無い数のトランクの山に一瞬怒りも落胆も忘れて呆けた。トランクケースはそのどれもがフランシスの腰ほどまで高さのある大きなもので、また一つとして薄汚れたり草臥れたりしていなかった。丁寧に磨かれた表面には汚れ一つも傷一つも見当たらない。いっそ新品なのではないかとさえ思えた。
その時だった。
「…ぎゃぁああああああ!!!」
およそ今までに聞いたこともない悲鳴が隣の部屋から響き渡った。男の声だった。
これまでフランシスは一年以上このアパルトメントでギルベルトと隣同士に住んでいたが、隣人がこれほどの奇声を発したことは一度も無かった。何事かと荷物の隙間から隣部屋を窺うと、フランシスの目の前で勢い良く扉が引き開けられ、小柄な少年が一人、半ば犬猫のように放り出された。かと思えば、そのまま扉は無情にも閉じられてしまう。
「ひどいです!何で追い出すんですか、ギルベルトさん、開けて下さいよー!」
締め出された少年が抗議の声を上げながら扉を叩く。
「誰があけるか!さっさと帰れ!!」
「ええ!どうしてですか、入れてください!」
「人が寝てんの良いことに上に伸し掛かってくるような危険人物入れられるか!!」
「大丈夫です、まだ何もしてません!」
唐突に始まった扉を隔てた言い合いは、静かだったアパルトメントの朝を一気にぶち壊した。フランシスは呆気にとられ、ただただ隣室の扉を叩き続ける見知らぬ少年とこれまでに聞いたことの無い様子で怒鳴り散らす隣人の声を聞いていた。声をかけることやトランクのことすらすっ飛んでしまった。
どれだけギルベルトが声を荒げても少年はまったくめげず、むしろフランシスの目からはひどく楽しそうに見えた。
少年は17、18辺りに見えた。どれだけ贔屓目に見ても決して25以上には見えない。背は低く体つきはやや頼りない。少し横が長めの髪の毛は真っ直ぐと伸びた漆黒で、目が大きかった。もう少し年が若かったなら、例えばプライマリースクールの学生ぐらいの頃であれば、女の子と間違えたかもしれない。中性的というよりはただ幼い顔立ちをしていた。服装はかっちりとしたトラディショナルファッションだったが、それが尚子供っぽさを強調しているようにも見える。おそらくは自分の外見が幼いのを理解しているのだろう、扉を叩きながらの抗議の台詞も、わざと子供っぽく振舞っているようだった。
「ギルベルトさん、ギルさん、ギールーベールートーさーん!開けて下さいよぅ!」
「うるせェ!何でお前がここにいンだよ、どーやって探し出したんだ、つかむしろどうやって中に入ったんだよ、不法侵入じゃねぇか!」
扉越しの怒声が帰ってくると、少年はびっくりしたように目を丸くした。そうしてから、ふふ、と楽しげな笑みを浮かべた。
「やですねぇ、そんなの決まってるじゃないですか。だって私、か…」
「わー―――ッ!!!!」
少年の言葉は部屋の中からの大声で後半がかき消された。直後開けられた扉からはギルベルトが下着一枚の姿で飛び出し、目の前にいた少年の襟首を引っ掴んで廊下の柵に押し付ける。
「お、ま、え、は、よォ~…ッ」
詰め寄る顔には明らかに青筋が浮き、歯軋りでもしそうなほどにきつく歯を食いしばっている。明らかに怒っていた。「今からお前を怒鳴りつけるぞコノヤロウ」といった雰囲気がありありと滲み出ていた。しかし、その自分よりも一回り以上体格の良い成人男性に詰め寄られていながら、少年はまったく怯えた様子もなくむしろ嬉しそうにギルベルトへと擦り寄るのだ。
「ふふふ、やっと出てきてくれましたね、ギルベルトさん!」
「うっせぇ!テメェは自分の立場ってもんを考えろっつーんだよ!俺が仲間だと思われたらどうしてくれんだ、ああ゛?」
「ね、ね、聞いてください。あのですね、私、昨夜のあの後ずぅっと考えたんですけど、とってもいいこと思いついたんです!」
作品名:共犯者はじめました。 作家名:あめゆき