「たとえその名は呼べずとも」
「すまぬ、病に苦しみながら生き長らえることなど、お前は望んでいなかっただろうに……あの場で命を落としていた方が、いっそ楽であったかもしれないというのに。いや、そもそも私が油断さえしなければ、お前があのような矢傷を負うこともなかったはずだ」
大谷の腕を痛いほどの力で掴みながら三成が叫ぶ。
「お前をそのような身にした私を恨んでくれ。憎んでくれても構わぬ。私の勝手でお前をこの世に縛り付けた私を呪ってくれ……!」
なんという、と思った。なんという純粋な男よ、と。
神仏は己を映す鏡だ。だから三成が見る神仏はおそろしく純粋で、それゆえにわずかな甘えも瑕疵も許さない。許されない、と三成は信じている。
なんという純粋で、いとおしい男だろうか。
「……ヒヒッ」
そう思うと笑いすら出た。病を発して以来、初めての笑いだった。
「ぬしは時折、幼児のように愚かよの。いや、責めているのではない。愉快だと言っているのだ」
唐突に笑い出した大谷を見て、三成はただただ唖然としている。その様がますます子供じみて見えて、大谷の笑いは長々と止まらなかった。
「良いか三成。われの病は以前よりずっと昔からこの身の内にあったものよ。それがちょうど現われたというだけのことで、あの矢傷が原因でもなければ神仏の罰でもない。ぬしが悩むな、気に病むな」
元より、矢傷の件では三成を恨む気など毛ほどもなかったのだ。それをいつまでも悩まれていては、湯殿で自分だけが裸になるよりも落ち着かない。そのような悩みは、大谷の身の内に澱り固まっていた重い気持ちと一緒に笑い飛ばしてやるのが一番だろう。
「しかしこのように笑ったのは久方ぶりよな。愉快愉快。まさかぬしがそのように信心深い男であったとは。いやいや、長生きはするものぞ。このように殊勝なぬしが見られるとは思いもよらなんだわ」
「しかし私は……」
「もう言うな三成。われはな、われの好きでぬしを庇ったのだ。誰に命じられたからでもない。われがそうしようと思ったまで。ぬしの責任なぞどこにある」
「だがそのせいでお前の病はこれほどに……!」
「もう言うてくれるな、三成」
大谷は再び、三成の肩をぽんと叩く。それだけでは足りぬ気がして、細い体を己の方へと引き寄せた。
されるがままに腕の中に納まった三成の耳に、大谷はそっと囁いてやる。
「ぬしを失いたくなくてぬしを庇ったと言うに、そのぬしに縁を断たれては、それこそわれは立つ瀬がないわ」
そうだ。われはこの男を失いたくなかったのだ。三成に言い聞かせながら、今更ながらに大谷はそう思った。
まるで一言一言を、自分自身に言い聞かせているかのような気分だった。
唸りを上げて飛んでくる矢の前に、躊躇せず飛び出したのはなぜだ? 避けられ、名も呼ばれぬことに苛立って、普段の冷静さを保てなかったのはなぜだ? 全てこの男を、三成を失いたくないためだったのではないか?
まさかこのわれが、とも思った。実の親にすら遠巻きに見つめられても気にしなかった。友などなくとも構いはせぬとも思っていた。なのに、三成だけは決して失いたくない。どうしても失いたくなかったのだ。
「われの傍にいよ、三成」
湯殿に向かう前、半兵衛が言っていたことを思い出す。『口に出さなければ伝わらないことがあるんだよ』。あれはもしかしたら、三成だけでなく己にも向けられていた言葉なのかもしれない。
だから大谷は、思ったままを口にした。
「一度誓いを立てた身として、どうしても神仏に対して気が済まぬというのなら……そうだの、呼び名は刑部のままで構わぬ。だが、これ以上はわれより離れてゆくな」
細い体を抱えた腕に力を込めると、大谷の病んだ肌に三成の白い頬が押し付けられる。それを三成は拒まない。厭わない。
それを見て、大谷の体からも力が抜けた。自覚もないままに、ずっと気を張り詰めていたらしい。それが抜けたせいか、平素よりもずっと素直な言葉が出る。
「われをもう、一人にしてくれるな」
それを聞いた途端、三成の喉から擦れた声が漏れた。
「よ、よしつ……」
掴まれていた腕が開放されたと思った直後、三成の腕が縋るように大谷の背に回される。
「刑部……っ!」
大谷に抱き付いて、それこそ幼児のように泣き出した三成の頭を、大谷は何度も撫ぜてやった。三成が泣き止むまで、何度も、何度も。
刑部、と他人行儀な名で呼ばれるのも、もう嫌とは思わなかった。
作品名:「たとえその名は呼べずとも」 作家名:からこ