「たとえその名は呼べずとも」
着物の次は包帯だった。包帯を巻くのも解くのもこの半月ほどでずいぶん慣れたものだが、着物の脱ぎ着に比べればまだ時間がかかる。しかもこちらは長い分、解いた端からまとめていかないと後が厄介だ。
上体の分だけでも、まるで小さな山のような量である。膿のせいでところどころ変色しているそれを、大谷は蜘蛛が糸を巻き取る如く小さな玉の形にまとめて行った。
一時、その細かな作業に気を取られていたらしい。
気付いた時には、思わぬ近さに三成の姿があった。何を、と問う間もなかった。
腕を掴まれる。驚いた拍子に手の中から包帯の玉が落ちる。ころころと転がっていくそれを視界の隅に収めつつも、大谷の目は三成の行為に釘付けにされていた。
大谷の腕の腫れ物に、いきなり三成が吸い付いたのだ。
「な……!」
慌てて振り払ったがもう遅い。洗い場に三成が吐き出したものには赤黒いものが混じっていた。どうやら腫れ物の膿を口で吸い出そうとしたらしい。
これに慌てたのは大谷だ。
「何をしておる! 早く口を濯げ! 病が感染ったらどうする!!」
幸い、湯だけはいくらでもある。洗い場を横切って湯の湧き出しているところに連れて行くと、三成は素直に口を濯いだ。その間に大谷は、先程三成が吐き出した自分の膿を手桶に汲んだ湯で流す。
それが済むと、大谷はどっと疲れた気分になって溜息をついた。
三成は以前から考えの読めぬところがある男ではあった。あまりにも率直に物を考えるゆえに、大谷のような者には逆にわからぬのである。しかし今度のこれは、長い付き合いの中でも飛び切りのわからなさだ。今となっては口を利くのも気軽にとは行かない相手だが、訳を訊かないわけにもいかぬ。
「三成、ぬしは何のつもりでこのようなことをした」
膿を吸われた腕はその分だけ腫れも引いて、心なしか軽くなったような気がする。この病が感染ると知られていなかった昔には、同じような治療が行われていたこともあるらしい。
だが今は、膿がこの病を広げることは子供でも知っている事実だ。それを口で吸い出そうなどとは正気の沙汰ではない。
何を馬鹿なことをと責める大谷の視線の前で、三成は俯き加減にぽつぽつと語りだした。
「……旅の道中、竹中様が光明皇后の故事を語ってくださった」
その話は、大谷も知っている。有名な伝承だ。
「業病の膿を御自ら吸い出された功を、病人が如来に変じて称えたというあれか」
「ああ。しかし竹中様はこうも言われていた。人が仏に変じることなどあるものか、と」
「そうよな。人はあくまで人よ。どのような貴人の祈願があろうと、人が生きながらにして仏に変じたりはせぬわ」
「竹中様もそう言っておられた。だからその伝承も、尊い人の思わぬ御慈悲を受けた病人が穏やかに逝ったか、あるいは……あるいは、快癒したかのどちらかだろうと」
そう言うと、三成は再び大谷の腕を掴んだ。膿を吸われた腫れ物は萎んだとは言え、それは無数のうちのひとつに過ぎない。三成が掴んだ腕にもまだいくつもの腫れ物がある。病を撒き散らす膿がいつ滲み出すかもわからぬ、恐ろしい腫れ物が。
だがそれを全く厭わぬかのように、三成は大谷の腕に頬を寄せた。
「……私では、無理だろうか」
その声が、微かに震えている。
「この膿を全て私の口で吸い出しても、お前の病は治らぬか?」
「三成?」
「私はなんとしてでもお前の病を治さねばならん。なぜなら、お前がこのような病を得たのは全て私のせいなのだから」
「何?」
「すまぬ、すまぬ刑部!」
唐突な謝罪の言葉に、大谷はとうとう三成を振り払うことすら忘れた。
ひどく混乱していた。この業病が三成のせいだと? まさかそのようなことがあるものか。この病はわれの前世の業ゆえに現われたものよ。他人のせいでなどあるものか。ましてや三成のせいであるわけがない。
だが三成は震える涙声で己を責め、ひたすら大谷に謝り続ける。
「すまぬ刑部。お前がこのように苦しむのは、全て私のせいなのだ! 私があのような祈念さえしなければ……!!」
「待て、まずは落ち着け三成。われにはぬしが何を言っているのかさっぱりわからぬ。まずは落ち着いて、何もかも最初から話せ」
そう言って宥め、幼い頃にしてやったように何度も肩を叩いてやる。すると、わずかずつではあるが三成の肩から力が抜けていった。だが大谷の腕を掴む手の力だけは増すばかりだ。もう二度と離すものか、と言わんばかりだ。
しかし、三成がぽつりぽつりと語ったのは、その大谷の元を離れねばならないという話だった。
「……お前があの矢傷に倒れた時、私は祈願をしたのだ」
三成を庇った大谷が矢に撃たれ、その怪我が元で生死の境を彷徨った時、三成は生まれて初めて神仏に祈ったのだという。そのためならば己がどのような責でも負うから、せめて命だけは助け給え、と。
「その時に、誰かから断ち物祈願の話を聞かされてな」
断ち物祈願とは、不浄のものや自分の好物を一切断って、神仏の加護を請うという願掛けのひとつだ。例えば、上杉謙信公が妻を娶らぬのもそれゆえのことだと言われている。
だが、思えば三成ほど断ち物に向かない者もいまい。酒なり女なり、断とうとする物への思い入れが強ければ強いほど、祈願の力も強まるのである。酒色はおろか、何に対しても執着のないこの男が何を断てば、神仏が顧みてくださると言うのだろうか。
一体誰がそんな話を三成に聞かせたのだ。そう思うと腹が立ってくる。おそらく、何を断てば良いやらと三成が右往左往するのを見て笑いものにするつもりだったのだろう。三成を良く思わないものは少なくない。
その思惑通り、三成は困り果ててしまったのだ。
「しかし私には好物などないし、茶も酒もそれほど好まぬ。女も好かぬ。では秀吉様や半兵衛様の前を去れば良いのかとも考えたが、御恩もろくに返さぬうちにはと考えるとそれもためらわれた」
「……で、ぬしは何を断った?」
「私は……私には、お前しか断てるものがなかった」
皮肉な話である。三成は何に代えても大谷の命を助けたいと思ったと言うのに、代えるものを何も持っていなかったのだ。あえて言うなら己の命という手もあるが、秀吉公の許しなくして死ぬことなど三成にできるはずもない。
「私はお前に嫌われても憎まれても構わない、だからせめて命だけは助け給えと……その証として私は生涯あの男の名は呼ばぬ、だからどうか助け給えと祈ったのだ!」
ぎり、と三成が歯を噛み締める音がした。苦渋の選択とはまさにこのことだろう。
だがそれでは駄目だったのだ、と三成は呻いた。
「しかし考えてもみろ。そのような半端な祈願を神仏が赦すはずもない。その病が何よりの証拠だ。私は……私はなんという愚かな真似を……」
そこでようやく、大谷の中で全てが繋がった。
三成と大谷を避けたのは祈願のため。名を呼ばなかったのも祈願のため。だが秀吉に仕えている以上、同僚である大谷との接触を完全に断てるわけもない。用があれば話しかけもするし、馬を並べて進むこともある。その中途半端さが神仏の機嫌を損ね、大谷を病ませてしまったと三成は思い込んでいるのだ。
作品名:「たとえその名は呼べずとも」 作家名:からこ