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君は教えてくれない

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人にはいくつもの顔がある。
家族に向ける顔、恋人限定の顔、どうでもいい人向け、その他大勢用。
では一体、彼のこの顔は、その中のどれに当たるのだろうか、と折原臨也は思考する。目の前で数学の数式をつまらなさそうに説いていた少年が、その視線に顔を上げた。
「・・・何か」
竜ヶ峰帝人。16歳、高校2年生。8歳年下、それ以上下なんじゃないかと思わせるほどの童顔。しかしその幼い顔に、時折滲む大人びた陰影を、臨也は知っている。
「いや、つまらなさそうだよね」
「宿題なんて楽しいわけがないと思いますが」
「そう?俺は・・・ああ、俺もつまんなかったか」
もうずいぶん前のことだからなあ、と笑った臨也に、不思議そうに首をかしげて、帝人はシャープペンをくるくると回す。
「折原先生、僕よりいくつ上でしたっけ」
「8歳だけど」
「じゃあ、そんな昔でもないじゃないでしょうか」
「そうかな」
「そうですよ」
そうしてもう一度、プリントに視線を落とす。
臨也が赴任してきた学校で帝人に会ったのは、4月の話だ。高校教師なんて、向いてないことは自分でも良くわかっているけれど、どうしても情報処理系の先生が足りないからと知人に泣きつかれて、1年間という約束で臨時教諭の座に座った。資格は大学時代に、取れそうなものはかたっぱしから全部とったのが役に立った。どうせフリーターみたいな生活をしていたので、丁度良かったのもある。
その、4月。
臨也は最初の授業で、黒板に自分の名前を書いた。「折原臨也」という漢字の羅列は、苗字はともかく、名前の方はちょっと読めないだろうと思ったからだ。良い余興になる。
「この名前読める人いる?」
尋ねれば、真っ先に生徒から帰ってきた返答は「りんや」。まあ無難なところだ。違うと告げれば、生徒たちはえーっと一斉にブーイングを放った。
「ノゾムっても読むっけ?」
「ノゾヤじゃ変でしょー」
「えー。他になんて読むの?」
そんなざわめきの中で、「あ、」と小さく声をこぼす男子生徒がいた。それが、帝人だった。
「そこの君、分かるの?」
指さしてやれば、帝人は困ったように笑って。
「えっと、いざや、さんでしょうか」
と答えた。
「臨也」は、完全に当て字だ。親のネーミングセンスもどうかと思うが、まず初対面でこれを「いざや」と読める人間というのはなかなかいない。当てられるとは思っていなくて、臨也は驚いた。
「え。よくわかったね、なんで読めたの」
尋ねた臨也に、帝人はもう一度困ったように笑った。なんとなく、です。そう答える声は臆病そうな普通の男子生徒にしか見えなくて、それでも初対面で名前を読んだ人間には初めて会ったから。
その時から帝人は、臨也のお気に入りになった。




「そこ違う」
「え。どこですか」
「問9」
「ええー?これ以外に使える公式ありましたっけ」
放課後の情報処理準備室。
昼の短くなった今の季節、少し遅くなると夜はずいぶん暗い。池袋のネオンは明るくても、学校というのはたいてい、静かな場所に建っているものだ。帝人がここで宿題をするようになってずいぶん経つが、そう言えば、彼の家はずいぶん寂しいところにあったなと、臨也は思い出した。
必死に頭をひねっている少年の頬の柔らかさを、短い髪が指に絡む感覚を、臨也の手は覚えている。
夏休み、気まぐれを起こして行った突然の家庭訪問。赴任する前に見た資料のお陰で、帝人の住所を難なく思い出せた自分の用意周到さからして、すでに最初の最初から帝人のことを特別に思っていたのかも知れない。
家、クーラー無いんですと告げた帝人の顔。熱さにふやけた、赤い頬と気だるげな目が、臨也を見上げて。華奢な腕さえ赤く染まっていた、その、真夏のシーンを。
衝動は一瞬で、抱き寄せて畳の上に押し倒した臨也に、帝人はやめろとは言わなかった。嫌だとも言わなかった。ただ困ったように笑って、そんなことをしたら後悔するのはあなたですよ、と、あまりにも生意気なことを言うので。
カッとなったのだ、と、思う。そう思いたい。
臨也はためらわずに帝人の唇をふさいだ。
何度も、何度も。


「折原先生?」


ふと、目を上げた帝人が、プリントの問9を指差す。
「これで、あってますか?」
「・・・うん、それで正解」
「よかった」
そんなことがあったというのに、帝人は臨也に怒ることもなければ、避けることもなく、ただ何もなかったかのような態度でこうして接してくる。事が終わった後、「忘れますから」と言ったのも帝人の方だった。心の整理をつけたいから帰ってくれと、部屋を追い出されて、どうやって家に帰ったのかさえ覚えていない。
どうしたらいいのか、わからない。
あまりにも帝人が普通だから。
学校が始まる前に、本当は何度も会いに行こうと思った。謝って許してもらおうと、菓子折りまで買って。けれども出来なかった。その、拒絶するように閉められたドアを遠くから見ただけで、そうして謝って許されなかったらどうすればいいのかと思ったりして。
そうしてとうとう、何のフォローも入れられないままに迎えた新学期、帝人は何事もなかったかのように、臨也に挨拶をした。
忘れる、と。
つまりそれは、なかった事にされるという、意味だ。
あの日のことなど何もなかったという顔で、帝人は今まで通りに情報処理準備室に宿題をしに来て、今までどおりに折原先生と呼んで、何もかも、今まで通り。
嫌われずにすんだことを喜べれば良かったのかも知れない。けれども臨也にはそんなふうに思えなかった。あれからずっと心を刺す小さな刺が、何時までも抜けず臨也の心を痛ませる。
何もかも忘れてしまったのか。
臨也の世界を揺るがしたあのキスも、その後も。
「・・・終わったら、送って行くよ」
最後の問題を解いている帝人の後頭部をちらりと見下ろして、早口で告げた臨也に、帝人は一瞬だけ体をこわばらせた。
「・・・そんな、いいですよ。遠くないですし」
「暗いし、生徒に何かあったら問題だろ」
「何も無いですよ、男ですから」
頑なにそう言って、最後まで終わっていない数学のプリントを鞄に詰め込む。急いで筆箱を片付けている帝人の手を、臨也は思い切り上から抑えた。
一瞬の、静寂。
「君はそうやって、」
何を、焦っているのだろう自分は。今月に入ってからこんなふうに、衝動が後を絶たない。臨也は余裕のない自分を心のなかで笑って、けれども顔では全然笑えなかった。
一年で終わる、教員期間。
冬休みも春休みもあるから、もう後ほんの少しの間しかこの子と過ごせる期間はないのだと、思い知ったからかも知れない。学校なんてあまりいい印象がなかったけれど、実際、折原先生と呼ばれるのは結構楽しかった。けれども同じくらい、自分は教師には向かないとも思い知った。
だって教え子に手を出すなんて、最低だろう。
「君はそうやって、全部無かったことにしたいのかも知れないけど、俺は」
「折原先生、」



「俺は君が好きなんだからしょうがないだろう!」



握りしめた手を強く握って、臨也は俯く帝人の顔を無理に上げさせた。戸惑いを含んだ目が臨也を見上げる。
そうだ、あの時だって、帝人は抵抗しなかった。嫌だともやめろとも言わなかった。ただ、困ったように笑って。
作品名:君は教えてくれない 作家名:夏野