全部帰り道に拾う
大切なものは大概、焼け上がったあとの野原に、ひとしきりの嵐が去った海原に、あるいは雪崩の起こった雪原に、ぽつねんと隠されているものだ。そのことを吹雪はとてもよく知っていて、台風の過ぎた後の街を歩くとき、雷鳴が終わったあとの帰路を歩くとき、なにか自分にとって有為なものが転がっていないかひそやかに探してみることがある。
過去自分を苛んだものに、びくびくと震える過渡期は去った。もちろん今だって、車に乗ったら嘔吐感に襲
れるし崩れる雪を見たら心臓がなにか尖ったものに刺されたようにじんじんと痛む。でも、怖いのは怖いけれどそれはたとえばビデオで見る映画みたいにどこか時代がずれており、決定的に過ぎ去っていて、現在の自分とはトレーシングペーパーくらいの厚さの紙で隔たれた、少し距離のあるリアル感に過ぎないと思う。
一度死ぬ思いでここまで来た。でもまだ、ここまでしか来れてはいない。
少年は手に、少しだけ溶けたカラフルな三段重ねのアイスクリームを持っていた。アフロディくん、と呼ぶと一口食べる?と前にいる天使みたいな男がにこやかに問う。首を振る。そうする吹雪の手にも、同じようなアイスクリームが握られている。三段。
夏だった。蝉が時雨れ雨がやって来てそれから去ったあとの、アスファルトがいやな湿気じみたにおいを残すこここそは、熱の膜につつまれた、破壊的で絶対的で/形骸的ではないリアルな夏だ。
吹雪はいつまで経っても照美のことを「アフロディくん」と呼んだ。照美にとってそれはもちろん自分で選んだ名前だけれども、日本の往来でそんなふうに呼びかけられるとなんだか少し照れるような気がする、とは、この前本人の口から聞いた。それでも彼のその名は国も、世界も、自分すら超える意味なんだと知ったから、吹雪は本気で嫌がられるまでいつまでだってそう呼んでやるつもりだ。
いい名前だね。そうやって褒める。照美の顔はあまり変わらない。照れるようでも、 嬉しそうでもない。ただかすかに唇を上げて、自分の一番美しくてはかない角度を知っているように見せつけるように吹雪に微笑む。
吹雪はとても、照美みたいには笑えない。だって彼はもっと甘えたで、孤高になれなくて、照美より少しだけ人のことを信じられる人生を今まで送ってきたものだから。
「君はいい加減名まえ以外も褒めてくれないかな」
「……? アフロディくんはきれいだし、いつもいいにおいだし、サッカー上手いよ?」
「ありがとう」
「ねえ僕、わりとめんどくさいなあと思いながら言ったんだ、今」
「知ってる」
そう言ってまた、見透かすように高貴げに笑う。吹雪もいつまでもかわいいよ、とかなんとか、いつからか呼び捨てられていた名まえをにやにやと口にして。
――ふたり分の制服姿と、小学生みたいに網に吊るして持ったサッカーボールの影がきつくコンクリに焼き付いていた。彼らの制服のシャツに隠された、肩胛骨に翼はもうない。
たとえば照美は、吹雪のことをかわいく思うから(!)、こんなようにたまに遊びに連れ出すのだろうか。それともあの、努力する我々を、運命を超えられない我々を、蔑むように光り輝いていた夏の一片を、引きずったままなんだろうか。吹雪や、あのキャラバンに一度でも乗ったことのある、運命共同体のチームメイトたちと同じように。
(「ごめん」
「……どうしたの?」
「あのときの僕の傲慢のことだ」
――照美が以前吹雪に言った言葉は、彼と会うたびに再生されて繰り返し響き続けるので忘れることが出来やしない。
そのとき、来やった季節がいつだったのかは覚えていない。照美は制服のシャツの上に女子高生みたいな長い袖のカーディガンを羽織っていたから、春か、秋のことだったんだろうか。照美はつぶやく。あの時の、僕の、傲慢のことだ。
吹雪は頭がそんなにはよくないものだから、傲慢、という言葉の意味なんてよく分からなくて聞き返す。ゴウマンって、なに? 傲慢は傲慢だよ。なあにそれ。いつも、君はアフロディくんだったろう。……
吹雪が儚いというよりは気の抜ける笑い方を向けると、何か、死に向かう人のような必死さを全身から醸していた照美は黙った。ゴウマンさ。おごること。無礼であること。吹雪は照美と会ったあとに、その言葉を辞書でひいて少しだけ驚いて、少しだけ憤ったように思う。
だってそんな、吹雪に対して傲慢であったなんていうとらえ方はただの彼の主観的な問題であって、吹雪は人生で最も苦しんだあの期間に、手を差し伸べかけようとして くれた照美のことを決してそんなふうには思わない。誤解を恐れずにはっきりと言うと、彼のちっぽけな「傲慢さ」なんかに興味はない。
言葉の意味を正しく理解しなかった、吹雪はでもその時言った。照美が必死で今にも泣きそうで、でも本当のことは何ひとつ話してくれないことを分かっていたから強い語感でそう言ったのだ。
「何かを補ったり、つぐなうのはもうたくさんなんだ。僕は、ただ、君とお茶を飲むのが好きなだけだよ」。……)
吹雪は照美とアイスを食ったり、コーヒーをだらだらと飲むことが本当に好きであったけれど、ふたりの拠りどころも目指す人生も、まったく反対方向の指針を指していることを知っている。
吹雪が過去に拠るとすれば、照美は未来に拠っている。互いに成長して、その部分を克服してはいるけれど、ふとした瞬間に見たことのある傷の色が向かった顔にちらついてはとめどない。
あつそうにアイスを舐める照美の肌が、気高い誇りにふるえあがる瞬間があるのを知っていた。吹雪の悲しみと絶望を、化膿した傷跡を、 照美に見られたことがあった。
ただ、お茶を飲むのが好きだった。
凪いだ水面を決して散らさないゲームを続ける二人は、安穏のおままごとが得られるだけで満足だった。でも照美と吹雪はやっぱり違う。吹雪は他の誰かに心を見せることがある。照美は、他の誰しもに心を見せない。
歩くような、止まるような速度で二人がべたべたと進む道あいの、雑草は妙に生き生きとコントラストを強調する。寒いところ向きのふたりの間にわだかまる会話は、汗の雫となって彼らの色の白い皮ふに結実していた。住宅街の道路はだらだらと続いていて、大人になりかけている彼らの、未来はアイスクリームの三段目とコーンの隙間の空洞みたいに頼りない。
歩みはいつまでも遅々として、彼らを家まで届けなかった。照美に何かを相談することも何かを求めることも救いを乞うことも吹雪はしない。送るメールも受けるメールも、待ち合わせの時間と場所以外示したことがほとんどない。
雨に濡れた路地を吹雪の目はたどる。
なにか大切なものが、そこに落ちてはいないだろうか。もういなくなった人。輝いていた石の断面。傷痕のないまっさらな肌。自分を呼ぶ人の声。衝動。いつくしむこと。傲慢になるということの意味。
「アフロディくん」
「なに?」
「一口もらってもいいかな。二段目。いちごの」
「どうぞ?」
差し出されたコーンごと、吹雪は照美の腕を静かに握った。こんなにも近くで見つめても吹雪にきれいな笑顔しか向けない照美は、孤高で、完結している、一人で生きる大切なサッカー仲間に違いがない。
生ぬるい風しか吹かず、蝉は時雨るように喧騒を耳へと叩きつける。
過去自分を苛んだものに、びくびくと震える過渡期は去った。もちろん今だって、車に乗ったら嘔吐感に襲
れるし崩れる雪を見たら心臓がなにか尖ったものに刺されたようにじんじんと痛む。でも、怖いのは怖いけれどそれはたとえばビデオで見る映画みたいにどこか時代がずれており、決定的に過ぎ去っていて、現在の自分とはトレーシングペーパーくらいの厚さの紙で隔たれた、少し距離のあるリアル感に過ぎないと思う。
一度死ぬ思いでここまで来た。でもまだ、ここまでしか来れてはいない。
少年は手に、少しだけ溶けたカラフルな三段重ねのアイスクリームを持っていた。アフロディくん、と呼ぶと一口食べる?と前にいる天使みたいな男がにこやかに問う。首を振る。そうする吹雪の手にも、同じようなアイスクリームが握られている。三段。
夏だった。蝉が時雨れ雨がやって来てそれから去ったあとの、アスファルトがいやな湿気じみたにおいを残すこここそは、熱の膜につつまれた、破壊的で絶対的で/形骸的ではないリアルな夏だ。
吹雪はいつまで経っても照美のことを「アフロディくん」と呼んだ。照美にとってそれはもちろん自分で選んだ名前だけれども、日本の往来でそんなふうに呼びかけられるとなんだか少し照れるような気がする、とは、この前本人の口から聞いた。それでも彼のその名は国も、世界も、自分すら超える意味なんだと知ったから、吹雪は本気で嫌がられるまでいつまでだってそう呼んでやるつもりだ。
いい名前だね。そうやって褒める。照美の顔はあまり変わらない。照れるようでも、 嬉しそうでもない。ただかすかに唇を上げて、自分の一番美しくてはかない角度を知っているように見せつけるように吹雪に微笑む。
吹雪はとても、照美みたいには笑えない。だって彼はもっと甘えたで、孤高になれなくて、照美より少しだけ人のことを信じられる人生を今まで送ってきたものだから。
「君はいい加減名まえ以外も褒めてくれないかな」
「……? アフロディくんはきれいだし、いつもいいにおいだし、サッカー上手いよ?」
「ありがとう」
「ねえ僕、わりとめんどくさいなあと思いながら言ったんだ、今」
「知ってる」
そう言ってまた、見透かすように高貴げに笑う。吹雪もいつまでもかわいいよ、とかなんとか、いつからか呼び捨てられていた名まえをにやにやと口にして。
――ふたり分の制服姿と、小学生みたいに網に吊るして持ったサッカーボールの影がきつくコンクリに焼き付いていた。彼らの制服のシャツに隠された、肩胛骨に翼はもうない。
たとえば照美は、吹雪のことをかわいく思うから(!)、こんなようにたまに遊びに連れ出すのだろうか。それともあの、努力する我々を、運命を超えられない我々を、蔑むように光り輝いていた夏の一片を、引きずったままなんだろうか。吹雪や、あのキャラバンに一度でも乗ったことのある、運命共同体のチームメイトたちと同じように。
(「ごめん」
「……どうしたの?」
「あのときの僕の傲慢のことだ」
――照美が以前吹雪に言った言葉は、彼と会うたびに再生されて繰り返し響き続けるので忘れることが出来やしない。
そのとき、来やった季節がいつだったのかは覚えていない。照美は制服のシャツの上に女子高生みたいな長い袖のカーディガンを羽織っていたから、春か、秋のことだったんだろうか。照美はつぶやく。あの時の、僕の、傲慢のことだ。
吹雪は頭がそんなにはよくないものだから、傲慢、という言葉の意味なんてよく分からなくて聞き返す。ゴウマンって、なに? 傲慢は傲慢だよ。なあにそれ。いつも、君はアフロディくんだったろう。……
吹雪が儚いというよりは気の抜ける笑い方を向けると、何か、死に向かう人のような必死さを全身から醸していた照美は黙った。ゴウマンさ。おごること。無礼であること。吹雪は照美と会ったあとに、その言葉を辞書でひいて少しだけ驚いて、少しだけ憤ったように思う。
だってそんな、吹雪に対して傲慢であったなんていうとらえ方はただの彼の主観的な問題であって、吹雪は人生で最も苦しんだあの期間に、手を差し伸べかけようとして くれた照美のことを決してそんなふうには思わない。誤解を恐れずにはっきりと言うと、彼のちっぽけな「傲慢さ」なんかに興味はない。
言葉の意味を正しく理解しなかった、吹雪はでもその時言った。照美が必死で今にも泣きそうで、でも本当のことは何ひとつ話してくれないことを分かっていたから強い語感でそう言ったのだ。
「何かを補ったり、つぐなうのはもうたくさんなんだ。僕は、ただ、君とお茶を飲むのが好きなだけだよ」。……)
吹雪は照美とアイスを食ったり、コーヒーをだらだらと飲むことが本当に好きであったけれど、ふたりの拠りどころも目指す人生も、まったく反対方向の指針を指していることを知っている。
吹雪が過去に拠るとすれば、照美は未来に拠っている。互いに成長して、その部分を克服してはいるけれど、ふとした瞬間に見たことのある傷の色が向かった顔にちらついてはとめどない。
あつそうにアイスを舐める照美の肌が、気高い誇りにふるえあがる瞬間があるのを知っていた。吹雪の悲しみと絶望を、化膿した傷跡を、 照美に見られたことがあった。
ただ、お茶を飲むのが好きだった。
凪いだ水面を決して散らさないゲームを続ける二人は、安穏のおままごとが得られるだけで満足だった。でも照美と吹雪はやっぱり違う。吹雪は他の誰かに心を見せることがある。照美は、他の誰しもに心を見せない。
歩くような、止まるような速度で二人がべたべたと進む道あいの、雑草は妙に生き生きとコントラストを強調する。寒いところ向きのふたりの間にわだかまる会話は、汗の雫となって彼らの色の白い皮ふに結実していた。住宅街の道路はだらだらと続いていて、大人になりかけている彼らの、未来はアイスクリームの三段目とコーンの隙間の空洞みたいに頼りない。
歩みはいつまでも遅々として、彼らを家まで届けなかった。照美に何かを相談することも何かを求めることも救いを乞うことも吹雪はしない。送るメールも受けるメールも、待ち合わせの時間と場所以外示したことがほとんどない。
雨に濡れた路地を吹雪の目はたどる。
なにか大切なものが、そこに落ちてはいないだろうか。もういなくなった人。輝いていた石の断面。傷痕のないまっさらな肌。自分を呼ぶ人の声。衝動。いつくしむこと。傲慢になるということの意味。
「アフロディくん」
「なに?」
「一口もらってもいいかな。二段目。いちごの」
「どうぞ?」
差し出されたコーンごと、吹雪は照美の腕を静かに握った。こんなにも近くで見つめても吹雪にきれいな笑顔しか向けない照美は、孤高で、完結している、一人で生きる大切なサッカー仲間に違いがない。
生ぬるい風しか吹かず、蝉は時雨るように喧騒を耳へと叩きつける。