人を呪わば穴二つ
――――――しっかりしなくちゃ。
眠りから覚めた杏里は、重い瞼を押し上げながら自分に言い聞かせた。睡眠を摂っても気分はちっとも晴れなかったが、寝不足気味だった体はいくらか楽になった。のろのろと体を起こし、枕元に置いていた眼鏡をかける。室内は薄暗いが、カーテンからは光が漏れている。寝入ってからそれほど時間は経っていないだろう。
――――――しっかりしなくちゃ。
杏里は、呪文のように同じ言葉を繰り返す。何度も、何度も。
キッチンに立つ平和島静雄。その珍しい光景を、新羅はまじまじと見つめていた。新羅は興味深そうにしているが、静雄はじっと見られていては落ち着かない。
「そんなじろじろ見張らなくても、何も壊しゃしねーよ」
たまりかねた静雄が、煩わしげ言い放った。
「別に心配してるんじゃないよ? なんだか物珍しくて。そういえば、前はバーテンだったんだもんね」
コーヒーの瓶を開けながら、静雄は溜め息を吐いた。
「バーは喫茶店じゃねぇ」
静雄は、今日もバーテン服を身に着けている。出勤日では無かったが、今やトレードマークとなった静雄の出で立ちは、無用な諍いを避ける役目を果たしていた。サングラスは、今は胸ポケットの中だ。
「ねぇねぇ、道具と材料揃えるからさ、今度何か作ってよ」
唐突な新羅の提案に、静雄は一瞬手を止めた。
「……もう忘れたよ」
静雄は、なんとも言えない表情を浮かべて目を伏せた。すぐに作業を再開しつつ、不遜に言い放つ。
「第一、それじゃ俺に旨みがねぇだろ」
「じゃあ、つまみは僕が用意するから。それならいいだろ?」
妙に食い下がる新羅に、静雄は内心首を捻った。
「……気が向いたらな」
人の機微に敏いとは言えない静雄は、結局、すぐに考えるのをやめてしまった。しかし、静雄の曖昧な返事に、新羅は満足したようだった。うん、今度ねと勝手に約束を取り付ける。静雄は軽く眉を上げたが、特に何も言わなかった。
そこへ、不意に扉が開く音がして、静雄はリビングの扉に目を向けた。
「やぁ。少しは気分が良くなったかな?」
新羅が親しげに声をかける。
――――――あぁ、この子か。
――――――ていうか、もう来てるんだったらそう言えよ。
ぼんやりとそんなことを考えていた静雄だったが、次の瞬間、反射的に手元にあったマグカップを投げつけた。
あれ?
私、どうしたんだろう。
何だか、妙に静かだ。
何でだろう……
……静か過ぎて、気持ち悪い。
「杏里ちゃん!」
新羅が叫んだ。リビングは、一瞬で惨状と化した。
静雄が見ている前で、リビングに現れた杏里は、突然新羅に切りかかった。
その光景を認識した静雄は、マグカップを杏里に向けて投げつけた。新羅は椅子から転がり落ち、杏里は恐ろしい勢いのそれを俊敏に避けた。壁に叩きつけられたマグカップが、粉々に砕け散る。
杏里は、はっとしたように動きを止めた。しかし、瞬間的に頭に血が上ってしまった静雄は、既にテーブルの縁に手をかけていた。
「静雄、待って!」
新羅が静止の声を上げるが、既に遅かった。テーブルが少女めがけて飛んでいく。新羅は思わず目を瞑った。
テーブルが、恐ろしい音を立てた。
新羅がそっと目を開けると、そこは想像していた光景とは少し違っていた。テーブルの残骸が広がっているが、そこに杏里の姿は無い。どうやら、開いたままの扉から逃げたらしい。
新羅は、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、すぐにぎょっとする。静雄がテーブルの残骸を乗り越え、杏里を追いかけようとしていた。
「静雄!」
新羅が声を上げるが、静雄は振り返らずに行ってしまった。
荒れた部屋に一人取り残され、新羅は呆然と座り込んでいた。これから楽しいティータイムになるはずが、とんだ大惨事だ。無意識に笑いを漏らしながら、ぐるりと部屋を見回す。
「これ、僕が片付けるのかな……」
誰もいない室内で、ぽつりと呟く。新羅のそばには、先ほどの菓子箱が落ちていた。静雄が振りかぶった際に、テーブルから滑り落ちて無事だったのだろう。
――――――ていうか静雄、間違っても女の子を殴り飛ばしたりしないだろうな……。
静雄は女性に手を上げるような性格では無いが、万が一のことがあっては、セルティに合わせる顔が無い。新羅は、床に座り込んだまま腕を組んだ。
――――――……一時的な罪歌の暴走、か。
杏里は、テーブルが投げつけられた時点で既に正気に戻っているようだった。
新羅はしばらく考え込んでいたが、ふと白衣のポケットから携帯を取り出した。
――――――…………。
床に座り込んだまま、深く溜め息を吐く。新羅は、腰を抜かしていた。