人を呪わば穴二つ
杏里は、我武者羅に走って、いつのまにか地下の駐車場に蹲っていた。
拭っても拭っても、後から涙が止まらない。無意識に知人に切りかかってしまったことが、想像以上にショックだった。今回は未遂に終わったが、偶然静雄が居合わせなければ、間違いなく刃は届いていただろう。
涙で滲む視界を手の平で塞ぎながら、杏里は恐怖に怯える。普段は聞き流している罪歌の愛の言葉も、今はただただ煩わしかった。冷たいコンクリートに座り込み、立ち上がる気力も湧かない。
――――――どうしよう。これから、どうなるんだろう……。
――――――………………お母さん……。
「おい」
静雄が、杏里の蹲る背に声をかけた。薄暗い駐車場、杏里は車の陰に隠れていたが、微かな呼吸音や絹擦れの音を聞きつけて来たのだろう。
杏里が恐る恐る振り向くと、静雄はぎょっと目を丸くした。泣いているとは思わなかったらしい。杏里は何か言わなければと口をぱくつかせたが、嗚咽が邪魔をして上手く話せない。
「……っあの、私、……ごめ、なさい……」
言葉は辛うじて音を伴ったが、途切れ途切れで酷く聞き取りづらいものになった。完全に毒気を抜かれた静雄は、あからさまに狼狽した。
「……分かった。分かったから、ちょっと落ち着け」
ごしごしと目元を拭う杏里に、静雄が慌ててハンカチを差し出す。
「……すみ、ま……せ」
「あー……いいからいいから」
泣いている女の子と静雄。新羅が見たらさぞ面白がりそうな光景だが、本人はまだ腰を抜かして立てないでいた。静雄はどうすることも出来ず、かといって泣いている少女を放っておくわけにもいかず、ただその場に佇んでいた。
しばらくして、幾分落ち着いてきた杏里は、ハンカチを握り締めつつ口を開いた。
「……あの、ありがとうございます」
静雄は、ほっとしたように息を吐いた。
「いいよ。気にすんな」
「……本当にすみませんでした」
杏里は地面に座り込んだまま、深々と頭を下げる。静雄は困惑げに視線を逸らした。
「俺は別に……謝るなら新羅に謝っとけよ」
「……はい」
杏里は、目尻に残っていた涙を指先で拭うと、地面に置いたままだった眼鏡をかけた。
「あの、ハンカチ、洗って返しますから……」
「え? いいよ、別に」
静雄は特に気にした様子は無いが、杏里は戸惑う。
「あの、でも」
「そんないいもんじゃないから。……ほら」
静雄が距離を詰めて、杏里の手からハンカチを引っ手繰った。握ってぐしゃぐしゃの形のまま、ポケットに突っ込む。呆気に取られた杏里が、まだ充血したままの瞳で瞬いた。
「……ありがとうございます」
「……ん」
静雄は軽く頷き、数瞬躊躇ってから口を開いた。
「あのさ」
「はい」
「さっきのアレって、切り裂き魔とかと関係あるのか?」
単刀直入な質問に、杏里は答えに窮した。口篭もる杏里に、静雄は言葉を重ねる。
「いや、それはどうでもいいんだけどよ。……しょっちゅうああなるのか?」
「違います!」
突然声を上げる杏里に、静雄が驚いて目を丸くした。杏里も自分で驚いたようで、はっとしたように顔を俯けた。
「そうか」
「……はい」
杏里は顔を上げなかった。強張った肩が震えている。静雄は視線を逸らし、何か考えるような表情を浮かべた。
「いや、あんま深く聞かねぇけどよ。よく新羅のとこで会うからさ。俺も人のこと言えねぇけど、しょっちゅうああだと困るな、と思ってよ」
「…………そう、ですよね」
杏里は、悲しげに微笑んだ。その表情を目にして、静雄は眉を寄せる。杏里の手は、固く握り締められて色を無くしていた。それを見下ろしながら、静雄はゆっくりと言葉を紡いだ。
「それって、どうにもならないもんなのか? なんかきっかけとか、原因とか、分かんねぇの?」
「それは……さっきのは私が不安定だと出るみたいで……最近少し悩んでいたので、そのせいだと、思うんですけど」
杏里は、再び恥じるように俯いた。
「そりゃ、難儀だな。その悩みってのは解決しそうなのか?」
静雄は自身と重ね合わせているのか、杏里に同情的に尋ねた。
「分かりません……」
静雄が首を傾げる。
「あ、あの、友達に……嫌われちゃったみたいで、……私には、どうしていいやら……」
杏里は、口篭もりながらも言葉を繋げる。口に出してみると、なんともありきたりな理由だ。しかし、静雄は真面目な顔で杏里の話を聞いていた。
「そりゃ、難儀だなぁ……」
静雄はしばらく無言で何か考え、ふと杏里に尋ねた。
「友達って、あの竜ヶ峰とかいう兄ちゃんか?」
「あ、はい、そうです」
杏里が頷くと、静雄はしばらく中空を見つめ、言った。
「行くか」
「え?」
「その友達のとこ」
静雄の言葉に、杏里が目を丸くした。
「……ほら、嬢ちゃんがずっとそんなだと、新羅もセルティも困ると思うからさ」
静雄は、ポケットから何かを取り出し、握った手を杏里の目の前に突き出した。杏里が思わず手の平を受けると、ぱっと手を開く。少しよれた紙切れが、ひらひらと杏里の手の中に落ちた。
「……露西亜寿司……特別割引券?」
「それやるから、仲直りして飯でも食いに行けよ」
端が折れた割引券を見つめながら、杏里は迷った。
露西亜寿司。かつて、帝人と正臣と三人で食べに行った店だ。あれは、夢のように幸せな日々だった。
「あの、いいんですか? 頂いても……」
「あぁ、貰いもんだから」
静雄は、特に気にしていないようだった。
「じゃ、行こうか」
杏里はまだ何の返事もしていなかったが、静雄は当たり前のように言った。どうやら、杏里について行くつもりらしい。
――――――この人がついて来てくれるなら……。
杏里の心に、僅かな打算が生まれる。
――――――もしまた罪歌が暴走しても、帝人君を傷付けずに済むかもしれない……。
そんな自分を自覚しながら、杏里はゆっくりと立ち上がった。
「あ、そうだ、新羅だ」
マンションの敷地を出る間際、静雄が気の抜けたような声で言った。静雄は立ち止まり、携帯電話を取り出す。電話は、すぐに繋がったようだ。
「……もしもし? …………悪いな。部屋ぐちゃぐちゃだろ。……………………あぁ、だったら、俺ちょっと用事出来たから、また後で詫びに行くわ」
――――――そういえば、さっきセルティさんいなかったな。
――――――お仕事だったのかな……急に押しかけたりして、迷惑だったかな……。
静雄の話す声を断片的に聞きながら、杏里はぼんやりと考えた。
「……あ? んなわけねーだろ。…………今? 普通」
静雄は一瞬杏里に視線を向けたが、すぐについと逸らした。
「あぁ、そうだけど。…………え、マジか。……分かった。あぁ。……ん。じゃあな」
静雄は電話を切ると、振り返って杏里に言った。
「なんか、セルティも竜ヶ峰の所に行ってるらしい」
「…………え?」