フレグランス β
帝人が両手で包むように持っていたコーヒーに、くるりと波紋が浮かんで消えた。
「甘えたいのに、どうしたらいいのかわからない」
「したいと思うことをして、言いたいと思うことを言ってみることから始めれば良いんじゃないかな」
臨也がそう答えると、帝人が黙り込む。
しばらく考えるような間をとった後、遠慮がちな声が聞こえてきた。
「そっちに行っても良いですか?」
「どうぞ」と臨也が答えると、背中に感じていた体温が離れていく。
帝人は机にカップを置くと臨也の正面に回り、向かい合うようにぺたりと座り込んだ。
どう動くのか帝人を見ていると、顔を上げて臨也の目をまっすぐ見つめた。
何かを考えているような、考えることを放棄しているような、不思議な目だと臨也は思う。
「どうしたんだい?」
あまりにじっと見つめてくるものだから、臨也は返事がないのを承知で尋ねる。
帝人はふいと視線を逸らすとわずかに距離を詰め、拒否されないのを確認して、臨也の肩に頭を預けた。
『まったく、珍しいこともあるものだ』と臨也が反応に迷っていると、帝人が独り言のように呟いた。
「臨也さん、なんかいい匂いしますね」
言いながら、鼻先を首筋に押しつけてくる。
気まぐれな猫が甘えてくる様にも似て、臨也はその背に手を回そうとしたが―
どさっという音と共に、背中に衝撃がはしる。
突然のことに一瞬息がつまり目を閉じたが、身体全体にかかる重みに臨也は目を開けた。
「帝人君?」
呼びかけてみたが、臨也に覆いかぶさるようにしているため、帝人の表情は見えない。
けれど、臨也の胸のあたりに添えた手でシャツをきゅっと掴んだから、眠ってしまったわけではないようだった。
しばらくの間部屋には沈黙が広がっていたが、小さくかすれた声が臨也を呼んだ。
「臨也さん」
「なんだい?」
尋ねると、一瞬考えるような間をおいて帝人が答える。
「『大丈夫』って言ってください」
「どうして?」
「良いから言ってください」
この少年は何を恐れているのだろう。
自分が作った見えない集団だろうか。
他のカラーギャングとの抗争だろうか。
知っている誰かが傷つけられることだろうか。
「大丈夫。大丈夫だよ」
細く頼りない背中に腕をまわし、母親が赤ん坊にするようにとんとんと軽くたたいてやる。
返事はなかったが、シャツを掴む手に力がこもるのがわかった。
「君にはダラーズがある。俺や運び屋だっているし、紀田くんや杏里ちゃんだっている。大丈夫だよ」
「大丈夫、大丈夫」と、魔法の呪文のように臨也は繰り返す。
言葉の裏にあるのは、『ここでこの少年がつぶれてしまっては面白くない』という身勝手な理由と、ほんの少しの『心配』
それを知らない少年は、ただ縋るものを求めて返事はしないまま手のひらに力を込める。
臨也の胸に埋めていた顔を上げると、唇に唇を押しあてた。
「はぁ・・・っ」
いつ離れたらいいのかわからなくて、どう息をしたらいいのかわからなくて。
触れるだけのキスは長く長く続く。
息が続かなくなって唇を離すと、臨也は「堪らない」というように小さく笑った。
「ほんと、君は俺の予想をいい意味で裏切ってくれるよ」
「・・・ダメ、でしたか?」
「いいや?良いんじゃないかな、こういう君も」
ようやく感情が追いついてきたのか、帝人は自分の行動に頬をかすかに赤く染める。
その様に、臨也は笑みを深くした。
「次はどんな君を見せてくれるのかな?」
再び、唇と唇が近づいた。