行間で恋をする(旧『まだ気づかない』)
【 まだ気づかない 】
目抜き通りを一本外れた処に小さな旅籠があった。屋号を竜臥亭と云う。折原臨也はこの古いが小綺麗な宿をいたく気に入っていた。暫くはここを活動拠点にして居着く事に決めた。臨也は文筆業を生業にしているので、彼の担当編集者に所在地の変更を伝えた。呼ばれて原稿を取りに来た編集者は目を丸くしていた。
「これはまた酔狂な。ま、蓼食う無視も好きずきと云いますけれど」
貴方の稼ぎならもっと上等な所に泊まれるでしょうに、と云う本音を顔に張り付けている編集者に、臨也は薄らと笑みを口の端に浮かべたのだった。
「いいじゃん、鄙びた宿ってのもさ。こう云う横の繋がりが強い下町の方が何かと情報を得易いものなんだよ。俺の趣味、知ってるよね?ならこれ以上の良物件がそうそう無いのは分かるでしょ?」
「左様ですか」
編集者氏も慣れたもので、毒ッ気の強い担当作家の弁舌をするりと聞き流す。
下町に張り巡らされた情報網を軽んじてはいけない。その上旅籠と云えば内と外との接点、情報網の交差点の様なものだ。臨也は即金で一年分の部屋代を前払いして旅籠の主人夫婦を仰天させると、二階の一番奥の間に逗留を決め込んだ。
この一等室の眺めは素晴らしかった。窓際に机を構えて原稿用紙を積み上げる。この部屋に居る時の臨也は大抵この場所に座っていた。仕事の合間にでも、酒を飲みながらでも往来を見下ろし、人間観察が出来るのが臨也には何よりも幸せだった。
この旅籠を選んだのにも、もっと単純な理由が有った。
或る時、柄にも無く一目惚れした子の家が、臨也の理想の隠れ家に極めて近い宿屋を営んでいると知ったから。
こうと決めたら行動は早い。直ぐさま金を用意して荷物を纏めて借家を人手に渡して、臨也は『竜臥亭』の奥の間、『竜胆の間』を根城にしてしまった。
*
湿っぽい初夏の空気に、じわりと汗が滲む。先程学校から帰って来た帝人の白いシャツが汗ばんで貼り付いているのが分かった。
「ねえ帝人くん、もうじきラムネ屋が通るからさ、ひとッ走り行って買って来てよ」
「ラムネですか」
開け放した窓の遠く向こうは茜色に染まり始めている。往来の喧噪に混じって豆腐売りのラッパの音。其れからややあって、ラムネを売る声が聞こえてきた。窓から身を乗り出して耳を澄ましていた帝人は「ほんとだ」と感嘆の声を漏らした。こう云う一見益体も無さそうな情報もまた、趣味の情報収集での副産物である。斯様なささやかな情報を披歴してみれば、「よく分かりましたねえ」とどこかくすぐったい帝人の視線が向けられる。
少年の手首を引いて、汗でしっとりと湿った手のひらに小銭を握らせる。仕草が助平親爺みたいだよと友人に揶揄われたのが頭を過ぎる。
手のひらの中で小銭を転がしながら、行ってきますねと立ち上がった帝人に臨也は身体だけそちらを向いて。
「悪いね」
「いいえ、大事なお客様のお遣いですから」
忙しない足音が遠ざかっていく。
「お客様、ねえ」
残されたのは、不満げに口をへの字に結んだ臨也がひとり。万年筆を投げ出して、黒革の手帖を取り出すとぱらぱら捲ってて先の予定を確認する。喉の乾きなんてすっかり何処かに行ってしまった。
帰ってきた帝人にはお座なりに礼を言って、汗のかいた冷たい瓶を取り上げると、濡れて冷たい温度が移ったままに、帝人の細い手首を掴んで引き寄せた。ひくり、と彼の薄い肩が揺れる。熱を奪われて冷えた手のひらと、いっそ羨むほどに温かな子どもの温度が入り混じる。
他人と真っ直ぐに視線を交わすが苦手な少年は、真正面から覗き込まれておずおずと見上げてくる。余りに臆病な仕草だが卑屈では無い。だから臨也はこの顔を好いていた。こんな男に好かれた帝人に取っては幸か不幸か。
「ねえねえ、この夏は一緒に避暑に行かないかい。山奥の別荘地まで」
「はい?」
また急に何を、と呆けた表情をしている帝人には構わず、臨也は愉しげに言葉を連ねる。
「今の短篇が終わったら次はちょっとした長篇執筆の話が来ていてね、ひと気の無い所に籠って集中したいって上申してみたら、出版社からは『どうぞどうぞ』の二つ返事でさ」
「へえ」
「君の学校ももうじき夏季休暇に入るだろう?女将さん、君のお母さんに確認取ったら、一週間位なら良いって快諾を貰ってるから安心して良いよ。其の上誂えたが如く、君には長い旅行の計画も無いときた。これはもう俺と旅行に行くべきって事だよね!」
「ほ、ほっといて下さい!何ですか其の理屈は!」
其れにしても良く調べて根回しをしてある。何やってんだあんた暇なのかとか帝人少年としても思う事が有ったのだが、深く追求した方が負けである。だって折原臨也はそう云う人間なのだから。この慌てふためく様までしっかり愉しまれているのかなあなんて思いながら、帝人は考える。
このひとの、誘いに乗っても良いだろうか。
目を細めて口の端を上げて、嬉しそうに喋る臨也の口元が思いがけなく近い所にあって、帝人はじりじりと畳の上を後ずさる。座り込んだまま動いても、手首を離してくれないまま臨也は退いただけ近寄ってくるのだから意味が無い。
赤みがかった南天みたいな瞳が帝人だけを見ている。女の人みたいに艶めいて綺麗な黒髪が手を伸ばせば触れられる所に有る。白磁の肌と対を成す艶消しの黒い着流しの、屈んであらわになった首筋、薄い膚に浮いた骨。とても直視してはいけないような、どこか後ろめたい色香に目を反らす。相手は男の人だってのに。
見た目こそ美しいが内にはたっぷりと毒を蓄えた、寧ろだからこそ美しいのかもしれないこの人と、夏の一週間を過ごすと?
子どもみたいに無邪気な顔をして容赦無く外堀を埋めてくる。勢いに押されながらも気づけば帝人は首を縦に振っていた。こくこくと。途端に臨也の顔は晴れやかに輝いた。口づけでもされそうな至近距離で「やった!」なんて快哉。
帝人の手首をあっさり解放した臨也は文机の前に座りなおすと、意気揚揚と万年筆を手に取った。
「愉しみだなあ!ああ本当に愉しみだ!そうと決まったら前倒しで仕事を片付けてしまう事にするよ。仕事は出来る時に片付けておかないとねえ」
臨也は浮かれた様子で、しかし猛然と万年筆を滑らせる。何が何だか分からないまま、帝人は溜息をついて一本のラムネを取って栓を抜いた。かろんと涼しげな音がする。甘い液体を飲みながら首を傾げる。臨也はこんな自分の何処が良いのだろう。どうもこの男は帝人をお気に召しているらしい。甘味や飲み物をいつも二人分、買いにいかせる。この部屋に居てくれという。宿題を教えて貰った事もあった。どちらが逗留客だか分かったものではない。
竜臥亭でも一番の一等室を向こう一年借りたいと云われた時は、帝人も仰天した。耳を揃えて一年分の宿泊費を出されてまた驚いた。彼の経歴を聞いて納得した。何を隠そう彼は、今を時めく売れっ子小説家だったのだ。
男は何かにつけて用事を帝人に頼んだ。帝人は素直に遣いを果たした。他でも無い、帝人は彼の著作を愛読していた読者だったので、直々に声を掛けられる事自体が嬉しかった。一番最初に彼は男に云った。
「貴方の作品、読ませて貰ってます!大好きなんです!」
作品名:行間で恋をする(旧『まだ気づかない』) 作家名:美緒