セオリー(短編集)
シーサイド・モーテル
武藤さんに車が動かせるなんて知らなかった。そう言って海の匂いが流れ込む窓辺に寄り掛かった彼女は綺麗に笑った。潮風に弄ばれるその髪を飽かず梳く、指。黙りこくってその様子を眺めていると、なんで黙ってるんですか気色悪い、と彼女はまた綺麗に笑った。いつも以上にどきどきが止まらないのでこのままだと自分は心臓病で死んでしまうのではないかと考えながら彼女に近付いて唇を押し付けた。少しだけ塩っぽい味のバードキス。舌は入れないでただただお互いの唇を吸うそれはそれは甘い時間。ここはまるで世界の果てみたい。ぽつりと呟いた言葉を拾った彼女はふたりの唾液とグロスでぐちゃぐちゃの唇を動かす。武藤さん私帰れなくなっちゃいそうです。卑猥。え?葉月ちゃんに誘われてるって葵ちゃんは思うことにしました。やだなあ最初っから誘ってましたよ。え?こんなところに来てまですることはひとつでしょう。自分ひとりでは到底思い付けなかったであろう口実を見つけてくれた彼女の聖母のごとき微笑。しよっか、と言う必要すらなくなったのは少しかっこわるいけれども。開けっ放しの窓の、ひらひらとはためくシーツと同じ白のカーテンの向こうには、もう、海。