我が愛しのキーラー・ポリグラフ
大体にして、臨也は分かり難いのだ。
言葉は人を翻弄する甘い嘘か苦い真実を紡ぐのみで、本心は滅多に吐露しない。
唇は常に歪んだ笑みを浮かべ、目に素直に映す感情は、人が自分の思う通り堕ちていったときの喜悦など、ろくでもないものばかり。
(この人の目や口は、いつだって嘘ばっかりだ)
商売柄、感情を表に出さないことは必須。それは理解できる。しかし、それはプライベートな時(そもそも臨也にオンとオフの切り替えがあるのかという懸念もあるが。)にも適用されていて、どれが本当でどれが嘘なのか、何が嬉しくて何が嫌なのか分かり難い。
これが無表情ならまだ良かった。臨也の場合、様々な表情を巧みに使いわけるから余計にタチが悪いのだ。
付き合いの長い人間ならば別なのかもしれないが、少なくとも帝人には臨也がどう思っているのか判断できない時がよくある。そのことを悔しいとも思うが、思っていても詮無いことなのだと十分に理解していた。
だから、臨也の手を好む。目や口よりも幾らか正直で分かりやすいから。
どうせなら、帝人の方から触れたいけれど、臨也が受動的な接触をあまり許そうとしないのだから、致し方ない。無理に触れて、拗ねられると大変面倒だ。なので帝人は、触られていないときは臨也の手を観察し、臨也が求めて手を伸ばせば、文句も言わずただその手を感じることに意識をやる。
言葉も紡げず、感情も表すことのない手。それでも、だからこそ隠しているものが何なのか、検討づける糸口になることがあるから。
(――けど、隠してるもの全部が分かるわけじゃないし、見当外れなことも多いのがネックだなぁ)
しかし正直なところを言うと、それ位でいいか、と帝人は思っている。臨也の思考することの全てを考え、配慮し、受け止めることなど、凡人である帝人には到底できるはずがないのだ。
眼と口から僅かに垣間見えることがある「本当」と、手から感じ取れる「本当」を併せて推し量るくらいが、きっと丁度いい。
もしかしたら、臨也にはとうに見抜かれているのかもしれない。全て承知して、好んで帝人に手をのばし触れては、自らの心の機微に少しだけ触れさせ、内心ではほくそ笑んでいるのかも。臨也のことなので、あながち否定はできない。もしそうなら、なんて嫌な男だろう。
しかし、考え始めるとキリがないので、帝人は半ばやけくそ気味に、そんなこと知ったことか! と居直ることにしている。それならそれで構わなかった。重要なのは、臨也の思いを知る手立てが僅かでもあること。
そして、今自分が伝えたい事は一つだけ。
「臨也さんが好きだから、臨也さんの手も好きなんです。そこのところを間違えないでくださいね」
驚いたのか、臨也の眼が少しだけ揺れたのを、帝人は確かにとらえた。
(いつもそうなら、もう少し分かりやすいのになぁ)
帝人は、いつの間にか離れていた臨也の手を掴み返す。
逃がしてやるものか、という意志を込めて。
手なら誰のでも良いのか。自分の手だけが好きなのかと、子どものような癇癪を起こした、一々面倒臭くて分かり難い男への怒りも込めて。
そしてついでに、先ほどの痛みのお礼も込めて。
帝人は、臨也が痛みに、
「ぁ痛たたたたた!! 帝人君! 本当に痛いってば!」
と喚くほど渾身の力でギュウウウウッと強く握り締めてみせるのだった。
end.
作品名:我が愛しのキーラー・ポリグラフ 作家名:梅子