シェルボに会いに
キャプテンが、見るからにおとなしげな風貌で外見どおり平素なら日常の凡庸に紛れるこの人が、いつからか「勝つために」とか「やってみなければわからない」なんて台詞を口にしだしたはどの瞬間だろうとふと考える。
貸し借りやその延長線上で発生したありきたりな仲間意識だけだったなら、僕はきっちり支払ったあの団体戦から今後も団体にエントリーしたいなんて思わなかったろう。あの日が単なる青春ごっこなのでは生まれ得ない。
個人戦とは、文字どおりたった一人で競技する。僕はそれを何度となくこなしてきた。何度となくこなしてきた個人戦のフロアマットで僕は初めて、耳は声援というものを存在として認識し、客席から押し寄せるのは目の前で展開するものが素晴らしい何かであるのを期待する波動なのだと知り、声援と波動を浴びながら、個人戦とは一人で競技をするというルールであり決して一人で成り立つ戦いではなかったのだということを知り。自分とは誰なのか。どこにいるのか。これが新体操だと思った。これが新体操だったのだ。
この人たちと新体操をやるんだと芽生えた思いは、決してこれからも一緒にいたいだとか先輩たちの熱情的思いに引きずられただとかなんてじゃない。それのみだったなら、これまで動かなかったように僕は決して動かなかった。
闘う意思を持つ者と共に自分もその意思を持って戦いの場に赴く、その至上の幸福はスポーツする者だけに訪れる特権ではないだろうか。
やれればいい、だけでは決して味わうことの出来ない。プレッシャーに押し固められ、純度が高められ抽出された一瞬。奮えるような一瞬。みんながその一瞬を作り出す、誰一人欠けても生み出せない、意思がなければ生まれない、それが新体操男子団体だ。
この人らとこんなに親しく接する関係性になろうとは、過去には思いもしなかった。
「今日は父が留守なのでどうせ母と二人きりで、人数引き連れて帰っても大丈夫なんです」
父が留守、でキャプテンはちょっと安堵したような表情をして、僕もちょっと苦笑いがこぼれる。恐いってイメージで凝り固まっているだろう。まあ実際そうだし。東さんと顔を合わせるのも今はまだ微妙な空気が漂いそうだ、東さんの性格ならそんなことはどこ吹く風かもしれないと言え。父さんがいるなら招こうと考えない。いなくて楽だ。
「いつも土屋くんのうちで銭湯をご馳走になって、東さんのうちに押しかけているんですから、僕のときに遠慮もないですよ。土屋くんの家にはお邪魔して行きますよね。今から家に連絡しておけば問題ありません」
母さんなら気兼ねを感じる必要はない。家にお客が来るのが大好きな人なのだ。父さんが、よく引き連れてくるので、指導している教え子たちを。
月に一度か二度ほど、居間にわいわいがやがや体格の良い連中が詰め寄っているのが我が家の風景だ。母さんは豪快な体育会系の集団を実に楽しそうに接客する。僕にとっては実に、うるさい風景だと思っていた。
僕が友人を、部活の仲間だってことだが、招くなんて言ったら、おそらく母さんは喜ぶな。僕が家に知人を呼ぼうなんてのは初めてだ。初めてなのに、キャプテンたちはいいけれど東さんたちのような人たちを連れて帰ったら、どうなんだろう、母さんはどんな顔をするものだろう。心密かに想像したら、なんだか可笑しくもなってきた。
「一昨年あった、ドイツで行われた世界体操連盟主催のショーってご存知ですか」
携帯を手繰り寄せながら何気ない風に僕はキャプテンと水沢先輩と土屋くんに尋ねてみた。金子先輩はまだ漫才の続行中だったので……はずなんだけど、素早く「主だった体操系のスポーツが一同に会し、器械体操やトランポリンや新体操やチアなどなどオリンピックや世界選手権で活躍するトップアスリートたちのエキシビション演技が披露され、男子新体操でも帝都大学が選抜されて演技をした、ドイツ遠征のことですか?」と流石の薀蓄。
「そのショーのDVDもありますよ」
「え?」
「えっ」
「は?」
「どええええええー!」
キャプテン土屋くん水沢先輩、金子先輩がリアクション芸人みたいな反応を返してくれて、ちょっと噴き出しそうなんですけど。
「なんで!? あれ体操協会のホームページでも発売されてないだろ」
「僕、動画でしか観たことありません」
「男子新体操じゃ異例の大観衆の中で演技したやつだよな」
「他の競技の名立たるトップアスリートたちが演技を披露した中でも、男子新体操がスタンディングオベーションを浴びた、あれですかっ!?」
ちょ、金子先輩つばが飛んでくるっ。接近しないでくれ。
「それです」
迫ってくる先輩たちから離れて、僕は携帯電話の自分の家のナンバーを呼び出した。背後からは、溜め息が漏れ聞こえた。
「てゆーかそれ何? おまえらだけで盛り上がんなよ」
「世界的由緒ある体操のショーがありまして」
「早い話が、男子新体操のレア映像、火野が持ってる」
「俺いま火野のこと火野様とお呼びしたい気分なんだけど」
「よっくわかんねえけど、キャプテンがそう言うんなら火野のことをよ、これから火野様って呼ぶか?」
「兄貴がそう呼ぶなら、俺もそっしちゃおっかなァ。ヒノサマァ~ン」
東さんが茶化すと日暮里くんがわざとらしい濁声で媚びた言い方をするので、僕の背後でみんなが笑う。明るさに満ちた笑い声だった。嬉しさを前面に出した様子で土屋くんまでが「火野サマっ」とおどけた。可愛い。土屋くんのアルトボイスで言われる分には可愛いなと、僕も思わず微笑ましさが込み上がる。
「ひのさま」
なんだか今ぼそりっとバリトンが聞こえたような、気が。
僕も含め視線が、木山さんに集まった。
「……冗談だ」
やがて、月森さんが木山さんの背中をばしばし叩いて、またなんだか笑い声が起こる。その輪から少し離れて僕は携帯をかけた。
ドイツ遠征のDVDを手渡してくれたのは母さんからだった。僕は最初それを大学の寮から帰って来ていた兄さんが置いていってくれたのかと思ったが、実は、父さんが手に入れてくれたものだという。なんで母さん経由で渡すんだ。どうも僕のひねた部分ってきっと、父さんに似たんだろとこっそり思う。
今は代表合宿ということで父さんも留守中だ。まだお礼を言っていない。自分の口で、伝えようと思っている。
通話を終えて僕も笑い声の輪の中に混ざった。
後記補足
ビタリー・シェルボは実在の人物です
参考資料 Wikipedia