シェルボに会いに
あっさりと答えた。言い出した金子先輩は元より、水沢先輩も瞳をぱっと明るくさせた。
「てか火野、それ俺も観たい」
「僕も、よかったら観たいです、ぜひ」
先に着替えは済ませ二人で戸締りのチェックをしていたと思ったキャプテンと土屋くんも参入してきた。
「持ってくるとは言いませんけど」
あっさり言い放った僕の言葉に、一瞬しょぼぼんとわかり易い落胆の空気が発生しそうになり、しかし、それを掻き消す素早さで僕は続けた。
「どうせなら、みんなで観たらいいんじゃないですか。持ち回す時間も省けますし。全員で」
「え、全員て」月森さんが「俺、たちも、って、こと?」と言い回しにリズムを刻んでつんつんつんつんと自分の鼻と東さんと木山さんと日暮里くんを指差した。つまり別に観たいと自ら言い出していない面子を。
「ええ」
ロッカーを閉めながら全員に聞こえるように返事をした。
着替えは僕が最後だった。僕がバッグを肩にかけたのを合図かのように、ベンチにいた連中も立ち上がりみんなわらわらと動き出した。
「みなさ~ん、忘れ物はないですかぁ?」
施錠の鍵を手の中でしゃらんと鳴らしながら、柏木先生が小学生相手のようなこと言って部員たちを戸口へ促す。最後尾の柏木先生の一歩前を行きながら僕は前行く人たちへ話しかける。
「木山さんは、吸収力が優れていると思います」
急に名前を出されて木山さんは、首を振り向かせて僕に視線を寄越す。
「まだ初心者の今のうち、一流のパフォーマンスを観るのはきっとプラスになります」
「俺は器械体操なんてわからねえぞ」
「新体操のことだってわからないじゃないですか」
日暮里くんが「あ~んムカつく言い方すんじゃねぞこら」と言うのは無視して僕は続けた。
「わからないからきっといいってこともあります。先入観のない今に、目に触れてもらいたい。本物を観るのは良いことだ」
シェルボは器械体操において、世界トップと称される選手たちの中で更に別段の演技をした人だ。体操競技の生ける教則のような演技を観ることが出来る。たぶんそういうことも、上達に繋がる。木山さんも、まだまだ東さんも月森さんも日暮里くんも。もちろん僕自身もそうだし全員そうだ。
部室から外へと出た。こもった部室の空気から放たれた開放感が身に行き渡る。群青色だ世界が。少し日が長くなったな。柏木先生が部室の明かりを消して出てきたが、すぐ暗がりに慣れた目にそれぞれ誰が誰なのか顔が見分けられた。
今よりももっと日が長くなっているような頃には、今よりもっと向上していたい、新体操を。
団体を。
今ここにいる全員が。全員の力で。今の僕は、そんなことを思っている。
「火野くんはそうやって育ってきたんですねえ」
柏木先生に挨拶をして笑顔に見送られながら校門へ向かって歩く。他の部活動も終了時刻を過ぎ、僕たち以外人気のない校庭の片隅で、金子先輩の声は薄闇の中にほどよく透った。
「小さい頃から一流のものに触れてきたんだなって、体に刻み込まれてますもんね。たとえば、立ち姿も、座ったときも、常に姿勢が綺麗なのは、子供の頃からもう身に付いているからですね」
「そう言えば、火野先輩って、休憩中とか、リラックスしているときでも、普通の人は背中を丸めたり、だらけた姿勢になるのが、背筋を真っ直ぐですもんね」
土屋くんが声を弾ませて言う。
自分では言われなければ意識しないことだが、どうも僕はそうらしい。腹筋と背筋で体を支える、胸は反り気味、肩に力は入れないで、首は伸ばように、尻と太腿の内側が締まる。こうやって作られる姿勢。やってみると割と筋力を要するこの姿勢は新体操において……器械体操でも、何気ないことに思われるだろうが枢要な基本で非常に大事だ。実は僕は、一般的にリラックスなんかのとき人は力を抜いて背中が丸まるが、こんな体勢が気持ち悪い。たとえば本を読むにも寝そべって読んだことが、意識はしてないのでたぶんだが、ない。
「体に何かを覚えこませるとき、大脳にインプットされるタイムリミットは12歳までなんだそうです」
日暮里くんが「な~んじゃそりゃ」と言うのがまるで合いの手のようだ。
「無意識のときも正しい姿勢でいるというのは、体に刻み込まれているという状態なわけですが、それが標準だと大脳がすでにインプットしているからなんです。大体12歳までにインプットしておくと後はもう無意識で出来る、12歳を過ぎては記憶にないので意識的にしか出来ないらしいです」
東さんと日暮里くんはもはや聞いてない。東さんが道端の石ころか何かを蹴飛ばしたのか、それが日暮里くんの足元をもつれさせ前を歩いていた水沢先輩にぶつかり更に金子先輩の背にぶつかった。
「あなた方のようにぃ、動きが雑ということはあり得ないってことですよぉ~」
歯をきりきりさせて金子先輩が食ってかかる。
「東くんはですねえ、そのっ、がに股をなんとかしてください直してください意識してください今すぐに!」
「んだコラァ!」
「言ってるそばからガラ悪く接近してこないでくださいよっ」
始まったどつき合いにみんなで笑い声を上げながらも、秘かに僕は金子先輩の言い分は正しく、それを何度どつき返されようが言い続ける金子先輩の口煩さというか粘り強さを感じていたりする。
東さんは僕からしても惚れ惚れするほど素晴らしい脚力の持ち主で、そこから生み出されるタンブリングは実に華々しい。四方フロアを豪勢な舞台劇場へと変貌させるようだ。だが身体能力にかまける分、細部が雑。それは事実だ。いつまで経ってもタングリングするとき東さんの膝は割れている。口がすっぱくなるほど言ってるのにな。言った瞬間は直っても、またすぐ膝が割れるのは、普段から姿勢の悪さが根本的悪因なのは確かに本当なのだ。僕はああもうなんで何度やっても割れるんだよと頭ごなしに言い散らかしたくなることもあるが、言い散らかしながら何度でも言い続けるのを止めない金子先輩のしつこさには、ちょっとすごいなと思わないこともない。多言すぎ迂遠すぎだけど。
金子先輩は意識している人だ。新体操のために、日々の生活の中でも、姿勢に特化して見るなら最も綺麗なのは金子先輩だ。キャプテンも流石に綺麗だけど、キャプテンは首のストレッチが綺麗で背筋が綺麗なのは金子先輩だなと思う。自分が意識的に生活しているから他人のことも気になる部分を発見するのだろう。
僕は人から育ちのことを言われるのが嫌いだ。つまり家のことを。つまりは、父さんのことを。
だが、今この一瞬にも僕が無意識レベルで身に着けている正しさは、確かに僕の新体操を、僕を、援ける。それはどこから来たものか。どうして僕はそんなもの身に付いているのか。
僕は今その事実をただの有りのままとして、胸襟に受け入れることが出来ている。
「今日は僕のうちでシェルボの鑑賞会といきましょうか」
「え、でも、この人数でお邪魔したら迷惑だろう。お父さんとか、いるんだろ」
キャプテンの常識的な配慮に僕は軽く首を振った。