わるいおうさま
『わるいおうさま』
小さく、歌が聞こえていた。歌詞はわからなかったけれど、ゾロにはそれが、誰かが自分の側で口ずさんでいるものなのだとわかっていた。夢ではないとわかったのだ。ゾロは水に沈んでいたけれど、その歌は太陽の下にあった。ゾロは、ぶくぶくと口から泡を吐きながら、ああ、と目を開いた。水の中にいる。水面がきらきらと光っている。地上に何があるのかは見えないけれど、やはり、歌は聞こえている。
ざばりと、身を起こした。
「起きたかクソ野朗」
まどろみに漬かった目をちかちかさせるゾロの耳には、馴染みの声がやはりぼんやりと聞こえた。少し鼻声で、姿は見えない。腰の横に付いていた右手をさらりと動かせば、しわくちゃになったシーツの感触が返ってきた。それはゾロには慣れない手触りではあったけれど、不思議と拒否が無い。どんな奴であっても、白いシーツにはゆりかごを思い出すのかもしれない。
歌は、既に止んでいた。ようやくそれに気付いた。ゆっくりと、鳥の羽が落ちてくるようなスピードでゾロは現実に戻り、ああそうか、と頭の中で呟く。
「……お前、どうする」
「おっと、まさか状況を覚えてたとはな、驚いたぜ」
「ああ」
欠伸をしようと口を開ければ、思っていたよりもずっと大きなものが漏れ出した。ふああ、ああ、あー、と、眠っている間に身体に溜まったものを吐き出して、ついでに大きく伸びもする。
自分の欠伸のずっと後ろで、簡易キッチンで響くガチャガチャという音が聞こえた。
ゾロの眠りをサンジは「惰眠」というけれど、まさに、と密かにゾロは思う。これはまさに惰眠だ。おそらくゾロの身体のどこかには小さな虫が住んでいて、それがじわじわと、ゾロの何かを食っていく。すると、金属の板が端から腐っていくのと同じように、ゾロは眠るのだ。
「……ま、どうもこうも、ひとつしかねえか」
ボリボリと胸と背中を掻きながら呟く。
「おい、酒取ってくれ。あれがいいな、あの……」
「うるせえ、選り好みできる身分か」
キッチンから返ってきたとげとげしい声にゾロは眉をしかめたけれど、まあ、言うまい。結局、何だって酒は酒だ。
そういえば、部屋には時折、随分と爽やかな風が流れ込んでいた。この、郊外に建てられた小さな田舎ホテルは、サンジのファミリーが経営に携わっているそうだが、なかなか良い生活をしているじゃないか。今ゾロたちがいるのは5階の一番上等な部屋だが、スウィートと聞いて思い浮かぶようなごてごてした煌びやかさはない。ただ清潔で、さっぱりとしている。興味は無いけれど、結構なことだ。
表にはプールがあったなァ、と思うと、ゾロはなんとなく愉快になった。
その浮かれようが、サンジらしい。別荘代わりにプールつきのホテルを建て、南国風の木を植え、清潔なシーツを敷いて喜んでいる。サンジはいつだって血みどろの無邪気な子供だ。
素足のまま床に降り、ゾロは窓辺に立つと指先でカーテンを退け、隙間から表を覗いた。きらきらと太陽に輝くプールの水面。大きく広がった椰子の木の葉。そして、堅牢な門の前に止まった、物騒な黒塗りの車の群れ。
ゾロがそれを見てクイと片眉を上げると同時、ようやくサンジがキッチンから出てきた。腕には、いっぱいの銃火器を抱えていて、「おい」と呼びかけるとゾロに酒瓶を放った。瓶を受け取って一瞬、ゾロは眩しげに目を細めその金髪を見つめたのだが、再び視線を窓の外へと戻す。
「しかしありゃ、どっちを狙ってんだ、結局」
「お、やっと来たか。……そういや聞いてなかったな。俺かな? だってここを予約したのは俺だしな」
「どうかね。てめえが予約したっても、どうせ偽名だろ?」
「まあな……」
少し考え込み、「じゃあ聞いてみようぜ」と言ったのはサンジのほうだった。
「どこに仕舞ったっけ、あいつ」
「クローゼットの中だ」
「ああ、そうだった」
面倒くさそうにサンジはクローゼットに歩み寄り、扉に手をかけた。サンジの屋敷のものと同じく、樫のよく磨かれた扉だ。こだわりがあるのだろう。
観音開きになった扉から、ごろりとパンツ一丁の男が転がり出てきた。両腕は後ろで、膝を曲げられ脚も縛られ、おまけに口と目もガムテープでぐるぐる巻きにされている。
「おい、坊や。てめえ、俺とこのクソ野朗、どっちを狙って来たんだ」
男のガムテープの口の方だけを剥がして、サンジはそのこめかみにぶつけるようにして銃口を当てた。まったく、ためらいがない。ぶつけた勢いで銃が暴発したって俺には全く関係ないね、とでも言いたげな勢いだった、今のは。プールなんかで喜んでいる男のくせに。
ワアァ! と、パンツの男が叫んだのを見てサンジは眉をしかめ肩をすくめた。「これだよ」、と口の動きだけでゾロに伝える。
「どっちだ! 言いやがれ!」
パンツのヒットマンは相変わらずぶるぶると震えていたのだけれど、そこでちょうど良く、表の黒服の連中が声を上げた。サンジ! てめえのタマァ取りに来たぞ!
「……ほらな、正しいのはいつも俺だ」
ニヤッと満足げにサンジが笑って、「てめえは聞かれたらさっさと答えやがれ!」と、上機嫌な声でパンツ男の頭を平手で叩いた。親しい友人にするみたいに。ぐすぐすと、ガムテープの下で男が泣いている。パンツで、縛られて、泣いている。
けれど、まあ、わからないでもねえなァ、とゾロは思うのだった。
パンツの男は、ゾロだかサンジだかの命を狙ってやってきたヒットマンらしい。サンジがワインを頼んだらやって来たのだ。つまり、ボーイに化けていた。
まだボーイの制服を着ていたころのパンツの男は、ワインを差し出す代わりに一発拳銃をぶっ放しこう言った。
『覚悟しやがれ!』
まったく、変な状況だった。ワイン片手にぶっ放した男と、それをじろりと睨みつけた男2人は、ベッドの上で絡み合っていた。サンジが上、ゾロが下。生憎、まだ入ってはいなかったけれど……。だいいち、ゾロもサンジも言われるまでもなく『覚悟』なんてとっくに済ませているのだ。むしろ、覚悟で出来たような人生なのだ。
まず真っ先にキレたのはサンジだった。もう、何から何まで、気に食わなかったのだろう。映画じみた台詞も、そいつの無精髭も、意外と幼い顔も、腕に抱えていたワインも。素っ裸のまま飛んでいって、ぼこぼこにして、ひん剥いて、縛り上げて、しかもサンジはヒットマンから雇い主の電話番号まで聞き出した。
小さく、歌が聞こえていた。歌詞はわからなかったけれど、ゾロにはそれが、誰かが自分の側で口ずさんでいるものなのだとわかっていた。夢ではないとわかったのだ。ゾロは水に沈んでいたけれど、その歌は太陽の下にあった。ゾロは、ぶくぶくと口から泡を吐きながら、ああ、と目を開いた。水の中にいる。水面がきらきらと光っている。地上に何があるのかは見えないけれど、やはり、歌は聞こえている。
ざばりと、身を起こした。
「起きたかクソ野朗」
まどろみに漬かった目をちかちかさせるゾロの耳には、馴染みの声がやはりぼんやりと聞こえた。少し鼻声で、姿は見えない。腰の横に付いていた右手をさらりと動かせば、しわくちゃになったシーツの感触が返ってきた。それはゾロには慣れない手触りではあったけれど、不思議と拒否が無い。どんな奴であっても、白いシーツにはゆりかごを思い出すのかもしれない。
歌は、既に止んでいた。ようやくそれに気付いた。ゆっくりと、鳥の羽が落ちてくるようなスピードでゾロは現実に戻り、ああそうか、と頭の中で呟く。
「……お前、どうする」
「おっと、まさか状況を覚えてたとはな、驚いたぜ」
「ああ」
欠伸をしようと口を開ければ、思っていたよりもずっと大きなものが漏れ出した。ふああ、ああ、あー、と、眠っている間に身体に溜まったものを吐き出して、ついでに大きく伸びもする。
自分の欠伸のずっと後ろで、簡易キッチンで響くガチャガチャという音が聞こえた。
ゾロの眠りをサンジは「惰眠」というけれど、まさに、と密かにゾロは思う。これはまさに惰眠だ。おそらくゾロの身体のどこかには小さな虫が住んでいて、それがじわじわと、ゾロの何かを食っていく。すると、金属の板が端から腐っていくのと同じように、ゾロは眠るのだ。
「……ま、どうもこうも、ひとつしかねえか」
ボリボリと胸と背中を掻きながら呟く。
「おい、酒取ってくれ。あれがいいな、あの……」
「うるせえ、選り好みできる身分か」
キッチンから返ってきたとげとげしい声にゾロは眉をしかめたけれど、まあ、言うまい。結局、何だって酒は酒だ。
そういえば、部屋には時折、随分と爽やかな風が流れ込んでいた。この、郊外に建てられた小さな田舎ホテルは、サンジのファミリーが経営に携わっているそうだが、なかなか良い生活をしているじゃないか。今ゾロたちがいるのは5階の一番上等な部屋だが、スウィートと聞いて思い浮かぶようなごてごてした煌びやかさはない。ただ清潔で、さっぱりとしている。興味は無いけれど、結構なことだ。
表にはプールがあったなァ、と思うと、ゾロはなんとなく愉快になった。
その浮かれようが、サンジらしい。別荘代わりにプールつきのホテルを建て、南国風の木を植え、清潔なシーツを敷いて喜んでいる。サンジはいつだって血みどろの無邪気な子供だ。
素足のまま床に降り、ゾロは窓辺に立つと指先でカーテンを退け、隙間から表を覗いた。きらきらと太陽に輝くプールの水面。大きく広がった椰子の木の葉。そして、堅牢な門の前に止まった、物騒な黒塗りの車の群れ。
ゾロがそれを見てクイと片眉を上げると同時、ようやくサンジがキッチンから出てきた。腕には、いっぱいの銃火器を抱えていて、「おい」と呼びかけるとゾロに酒瓶を放った。瓶を受け取って一瞬、ゾロは眩しげに目を細めその金髪を見つめたのだが、再び視線を窓の外へと戻す。
「しかしありゃ、どっちを狙ってんだ、結局」
「お、やっと来たか。……そういや聞いてなかったな。俺かな? だってここを予約したのは俺だしな」
「どうかね。てめえが予約したっても、どうせ偽名だろ?」
「まあな……」
少し考え込み、「じゃあ聞いてみようぜ」と言ったのはサンジのほうだった。
「どこに仕舞ったっけ、あいつ」
「クローゼットの中だ」
「ああ、そうだった」
面倒くさそうにサンジはクローゼットに歩み寄り、扉に手をかけた。サンジの屋敷のものと同じく、樫のよく磨かれた扉だ。こだわりがあるのだろう。
観音開きになった扉から、ごろりとパンツ一丁の男が転がり出てきた。両腕は後ろで、膝を曲げられ脚も縛られ、おまけに口と目もガムテープでぐるぐる巻きにされている。
「おい、坊や。てめえ、俺とこのクソ野朗、どっちを狙って来たんだ」
男のガムテープの口の方だけを剥がして、サンジはそのこめかみにぶつけるようにして銃口を当てた。まったく、ためらいがない。ぶつけた勢いで銃が暴発したって俺には全く関係ないね、とでも言いたげな勢いだった、今のは。プールなんかで喜んでいる男のくせに。
ワアァ! と、パンツの男が叫んだのを見てサンジは眉をしかめ肩をすくめた。「これだよ」、と口の動きだけでゾロに伝える。
「どっちだ! 言いやがれ!」
パンツのヒットマンは相変わらずぶるぶると震えていたのだけれど、そこでちょうど良く、表の黒服の連中が声を上げた。サンジ! てめえのタマァ取りに来たぞ!
「……ほらな、正しいのはいつも俺だ」
ニヤッと満足げにサンジが笑って、「てめえは聞かれたらさっさと答えやがれ!」と、上機嫌な声でパンツ男の頭を平手で叩いた。親しい友人にするみたいに。ぐすぐすと、ガムテープの下で男が泣いている。パンツで、縛られて、泣いている。
けれど、まあ、わからないでもねえなァ、とゾロは思うのだった。
パンツの男は、ゾロだかサンジだかの命を狙ってやってきたヒットマンらしい。サンジがワインを頼んだらやって来たのだ。つまり、ボーイに化けていた。
まだボーイの制服を着ていたころのパンツの男は、ワインを差し出す代わりに一発拳銃をぶっ放しこう言った。
『覚悟しやがれ!』
まったく、変な状況だった。ワイン片手にぶっ放した男と、それをじろりと睨みつけた男2人は、ベッドの上で絡み合っていた。サンジが上、ゾロが下。生憎、まだ入ってはいなかったけれど……。だいいち、ゾロもサンジも言われるまでもなく『覚悟』なんてとっくに済ませているのだ。むしろ、覚悟で出来たような人生なのだ。
まず真っ先にキレたのはサンジだった。もう、何から何まで、気に食わなかったのだろう。映画じみた台詞も、そいつの無精髭も、意外と幼い顔も、腕に抱えていたワインも。素っ裸のまま飛んでいって、ぼこぼこにして、ひん剥いて、縛り上げて、しかもサンジはヒットマンから雇い主の電話番号まで聞き出した。