真夜中の子供たち
数日後。ニーアは、北平原を抜けて崖の村まで、迎えに行った。よく晴れた日で、マモノの姿はなかった。
コウモリの棲(す)む薄暗い洞窟を抜けてたどりつい村は、あいかわらず、ひとの気配は感じられず、ひっそりとしていた。それでいて、執拗な視線を感じるのだ。おそらく家の窓から、ねっとりと余所者を監視している。ニーアは、その視線を、あえて気付かぬフリをしてまっすぐ、村長の家へと向かった。
その家の扉の前で、少女の姿を、ニーアはすぐに見つけることができた。霧にまぎれるように小さな少女はぽつんと座っていた。その横に小さな荷物だけが置いてあった。ふるびた鞄が、たったひとつ。
俯いて座っていた少女は、ニーアに気付き、緩慢な仕種で顔をあげた。すべてにくたびれたような胡乱(うろん)な目だった。
村長の家の扉は閉め切りて、ノックをしても決して開けようとしない。ドア越しに村長に声を掛けたが返答はなかった。村長の姿を、ニーアは見たことがなかった。何度か遣いは頼まれていたにもかかわらず、彼は決して、姿を見せることはなかった。
この村の人間は余所者を嫌う。少しでも、異質な者は排除しようとする。ニーアは、この村に来る度、嫌なほどの視線と、排他の感情を感じた。今日もそうだった。「厄介者を連れて、早く出ていけ」
カプセルのような家の中から、そう投げ付ける者さえもいた。
ニーアは、少女の荷物を抱えると、足早に崖の村を去った。この場所にいると、何か、こころのうちに黒い染みが拡がっていきそうなのだ。そして、こんな悪意から一刻も早く、連れ去りたかった。
薄暗い洞窟を抜けて、北平原の入口に出ると、ニーアは深く吐息をついた。そして、ようやくニーアは、少女の姿をよく見ることができた。その姿は、とても大切にされていた様子はなく、ニーアはくちびるを緩めて、すぐに笑みを取り繕った。
「おれは、ニーア。今日から一緒に住むんだ。よろしくな」
少女は、じっとうつむいていた。ニーアはしゃがみこんで、少女の顔をのぞきこんだ。青みがかった銀色の髪が、血の気のない青白い肌にたれかかって、影を作っていた。薄いくちびるを痕がつくほど噛みしめて、じっとことばを発しなかった。
そうだろう。たったひとりの家族をなくしたばかりなのだ。ニーアは胸の痛みをおぼえた。カイネはうつむいたままだった。かたく口を閉ざしたままで、無表情にすら、見えた。
この少女の名は、カイネという。この名も、いずれかで耳にしたこともあろう。ヨナが亡くなり、ニーアはカイネに出逢った。このお話は、ニーアとカイネの物語なのだ。
よく晴れ、雲一つない空だった。マモノの姿もない。マモノは日の光に弱く、このように晴れた日には滅多に姿をあらわさない。
ニーアは、ひとつお遣いを頼まれており、北平原の北の果てにある、神話の森に立ち寄った。
「少しだけ待っていてくれる?」
森の入口で訊ねると、カイネは、こくんと頷いた。まるで唖のように、黙っていた。ニーアは、足下に視線を落とした。ここにしかない、鮮やかな色の実がひとつふたつと転がっていた。カイネの目がそれをとらえていることに気付いた。
「その実は毒なんだ。前も、おれの村の子どもたちが食べて、……ひどい目にあったんだ。だから、食べちゃダメだよ」
ニーアの言葉が聞こえているのか、カイネは、薄い色の眼で、毒々しい色の実をじいっと見つめる。ニーアはほっとして、森の奥へと進んだ。カイネが落とした木の実を、拾ったことに、ニーアは気付かなかった。
神話の森での仕事をすぐに終え、ニーアは船着場から、船に乗って、村に戻った。北平原を歩いて抜けるには、カイネは小さすぎたのだ。あれだけ晴れていた空は、雲が翳(かげ)りはじめていた。もうすぐマモノがあらわれるかもしれない。ちいさな子供に、あの姿を見せたくなかった。更に言えば、マモノを殺すところを見せたくはなかった。マモノは影のようなものにもかかわらず、剣で斬ると確かな手応えがあり、血のようなものが吹き出す。その臭気は、堪え難いものがあった。マモノを斬る度に、ニーアは、厭な感覚が手に残っていた。しかし船に乗ってしまえば、そんな心配もない。
船に乗っている途中で、カイネはうとうととしはじめて、ついには眠ってしまった。水の音はさやさやとうるわしい子守唄のように、カイネを包み込んだ。ニーアは、少女の姿を見つめた。
カイネは、聞いていた歳にしては、ずっと小さく見えた。からだは小さく、やせっぽちだった。ほとんど銀色に見える髪を背中まで伸ばしていた。それも、ぼさぼさで、捨てられた子猫のような有様だった。ニーアが伸ばした手を、決して盗ろうとしなかった。
まだ小さい少女の姿に、ニーアは、ヨナの面影を見出した。両親を亡くしたにもかかわらず、ニーアにあいされ、村人たちに大切にされて育ったヨナの屈託のなさにくらべて、カイネは大人びていた。それは、環境の酷さを反映しているのだろう。祖母をなくしたばかりだからかもしれない。
やがて、村に着いた頃には、夜を迎えていた。かつて、この世界には夜と呼ばれる闇が訪れる時間があったというが、ニーアには信じられなかった。
カイネを起こさぬように、そっと抱き上げて、家まで運び、ヨナの眠っていたベッドに横たえた。毛布をかぶせた。五年前に喪った日々がよみがえるような気がして、胸がいたんだ。夜も遅い。デボルとポポルへの挨拶は明日にすることにした。
ひさびさにひとの気配のある、家になる。いつだか、確かヨナが黒文病を発病したころ、家を譲ってほしいという話があったことを思い出した。それで当面の金銭ができる。境遇を見かねたデボルが言ってくれた。けれどニーアは断った。大切な家だった。
ひとりで住むには広すぎるのだ。かつては、両親とヨナがいた。ニーアひとりだけになり、そして今度はカイネがやってきた。
ニーアは、カイネの荷物を棚にしまった。その荷物は、ほんとうに少なかった。着替えはいくつかだけだった。どの服も大切にていれされていて、祖母にあいされていたことは伝わってきたが、同時に貧しい暮らしをしていたこともわかった。
自分と同じ境遇だ。この世界に、もう家族はいない。
(おれも、カイネも)
眠るカイネの頭をなでると、やわらかい温かさが伝わってきた。
ニーアは、何日かごとにパンを焼く。いつものことだ。朝には、水を汲む。ヨナが生きていたころから、変わらない。
「起きたのか」
カイネはこくんと、頷いた。あいかわらず、声を発しなかった。
「おはよう」
ニーアはそれでも声をかけた。
ふたりの暮らしは、ぎこちなくはじまった。ヨナと暮らし子供には慣れているはずのニーアでも、カイネに大してはどう接してよいかわかりかねた。カイネはいつもなにかおびえているかのようで、ニーアを警戒していた。
ニーアがこしらえた食事もあまり手をつけなかった。かと思えば、木の実を拾ってきては食べているようだった。家の近く以外に出掛ける他は、ほとんど家の中にいた。