雨の夜に
起き上がったらまだ夜だった。寝巻きも布団もじっとりと水気を含んで気持ち悪く肌にはりついている。重い頭をふらふらさせながら襖を開けて次の間に出ると、外はからりとは行かなかったが雨粒のかけらもなかった。木々もすっかり乾いている。二晩寝ていたってことはあるまい。屯所の部屋はほとんど明かりが落ちていて、夜更けであることだけは分かる。暗い部屋に一点、蚊取り線香の赤い火。頭の上にはぼんやりとした月。上の方が欠けている。
「今朝まで降っていたんですよ、ちょっと蒸しますね」
寝巻きの代えを抱えた山崎が知らぬうちに立っていた。布団も代えましょう、と言って他の座敷から出してきた。
「近藤さんは」
「今日は松平様に呼ばれて夜までお付き合いがあるそうで。隊長のこと、心配されてました」
「土方さんは」
「今日は非番で、昼は外に出てらっしゃいましたが夜はお戻りでした」
「そう」
もうあの女のところへは行かないのか。手紙には何を書いたのか。頭はよく働かない。
「もう寝たのかね、あの人」
「夜になって思い出したように仕事されて、さっきタバコ買いにお使いしてきたんで、まだ起きてらっしゃると思います」
「ほんと仕事と心中すればいいぐらい仕事が好きだねぃ。女の話、ありゃあてめえの思い過ごしじゃねえのかい」
「それなら、それが1番いいですけど」
「でも、様子には気をつけときな。夜出かけたら、すぐ教えろ」
湿った布団が運び出されている間に寝間着を代えた。さらりとする感触と鼻を掠めるちょっと甘い匂い。
「山崎ぃ、洗剤変えたのかい」
「いつものがなかったので」
「俺こっちのがいいわ。この匂い、好き」
枕元の水差しで薬を流し込んで、また闇の中へ戻った。あの人、いつ寝てるんだろう。寝顔、見たことあっただろうか。
翌日には喉の痛みも取れ、頭の中のぼんやりが残るだけだった。ずっと臥せっていたら体が腐る、そう言って午後には床上げさせたが、隊服は返してもらえなかった。今日までは安静にしていろと副長の言いつけですから。山崎は事あるごとに副長副長と言う。1日最低でも30回ぐらい副長って言葉を口にしてる。何だよ土方、医者でもないくせによ、と悪態ついて屯所の中でいたずらをして回って時間を潰した。その日も暑かった。ずっとずっと暑くて、暑くなかった日のことが思い出せない。早く秋が来ればいいのに、と近藤さんに言うと、花火もまだ見ていないじゃないかと笑っていた。今年は花火大会の夜は休みにしてやるぞ、去年は雨だったしその前は捕物だったしなあ、と言って髪をわしゃわしゃと豪快に撫でてくれた。別に花火なんてどうでも良かった。早く夏が終わればそれで良かったのだ。肝心のあの人はずっと出払っていた。
何となく、あの人はもう女には会いに行かないような気がした。でも、女の顔を見られないのは口惜しい気もした。どんなツラして女を口説いてるのかも知りたかった。
日が落ちてもあの人は戻ってこなかった。山崎もいなかった。蝉も静かになった。出払っていて明かりを附けて回る奴がいない。屯所の中も闇が染みていくように暗くなってしまった。じりじりしてどれだけ時が過ぎたろう、何だ真っ暗じゃねえか、鍵もしてねえし無用心だなとぶつくさ言う声がして、玄関に灯かりが点った。廊下を走るなんざ久々な気がする。足音はこんなに響くもんだったっけ。臓腑にずしりと来るような衝撃があった。おせえんですよ馬鹿、隊服返せ、と玄関で団扇をぶつけられたあの人は目をぱちぱちさせていた。
「何だ、もうすっかり元気じゃねえか。明日から休んだ分みっちり働けや」
靴を脱ぎながら、土方さんは笑ってた。