小ネタ6 ※801・腐
これは夢かもしれない。アーサーはそう思って記憶の糸を手繰ったが、アルコールをしこたま摂取したにも関わらずここに至る経緯ははっきりと覚えていた。つまりこれは夢ではなく現実である。しかし何故、という部分については考えても分からなかった。特に理由などなかったのだろう、ちょうど腹が減っていて、彼の提案が魅力的に思えただけで。
とぽとぽとぽ、と赤い液体が揺れている。
「もう一本頼むか?」
空になったボトルを隅に置いて、イームスが問いかけた。アーサーは注いでもらったグラスに口をつけ、お前が飲みたいなら、と返した。高級な店ではない。追加したところでたかが知れており、そこそこの収入を得たばかりでもあった。イームスはメニューを持ってこさせ、薦められるがままに注文していた。
「大した役者だったな、コブって奴は」自ら注いだワインを水のように流し込みつつイームスは言った。「前々から評判は聞いてたが驚いた。俳優にでもなれんじゃないか」
そうだな、とアーサーは応じたが、正直なところコブという名前しか耳に入っていなかった。そうだな、コブは誰より本番に強いから。あたりさわりのない、中身のない返事を反射的に投げる。
腕のいい偽造士を知らないか、次の仕事に必要なんだ。コブにそう持ちかけられたのは今から一ヶ月前のことだ。キャリアは決して長くはないが、心当たりはいくつかあった。けれどあえてイームスを紹介したのは、プライベートと仕事を完全に分けているのだと、誰にともなく証明したかったからかもしれない。幸いにも、表面的には何事もなく終わった。イームスも珍しく――と言っていいだろう、変にふざけたりはせずに淡々と、求められた役割を果たした。結局のところ、波風が立っていたのは己の胸中だけだった。そしていまだにやまない。
「アーサー、そろそろ」
呼びかけられた拍子に、空になった皿の上で弄んでいたフォークを取り落とした。耳障りな音が客の引いた店内に響く。失礼。ひとこと発して時計を見ると、ワインを追加してから二時間が過ぎていた。ろくに喋っていない――少なくとも自分は。つまり二時間ものあいだ、目の前の男をほっぽって物思いに耽っていたというわけだ。さすがに申し訳なく思い、イームスが受け取ろうとしていたチェックを横から奪った。
「ここは俺が払う」
「何言ってるんだよ」とイームスは鷹揚に笑った。「俺が誘ったんだから俺が払うさ。お前ほとんど飲んでないじゃないか。よこせ、ほら」
「いいんだ」
彼に見えないように値段を覗く。想像していたよりは高いが、カードを使うほどでもない。それにお前に奢られる義理はないし。口に出してしまってから、嫌味だったろうかと不安になった。しかしイームスは意に介する様子もなく、ならお言葉に甘えてとあっさり引き下がり、奥のトイレに向かっていった。あまりの引き際のよさに、もしかして最初からそのつもりだったのでは、と一抹の疑いが頭をよぎったがもみ消した。悪いのは俺だ。
勘定を終えて店の外に出る。ぼんやりと明るい曇り空を見上げ、ちっとも酔っぱらっていない自分に気付いた。帰って一人飲み直そうか、そうでもしないと眠れそうにない。歩道のブロックを蹴り付け、あいつの顔を見ないで帰ってしまおうと決心しかけたとき、からん、と扉が開いた。出てきた彼は、小さな袋を持っていた。
「……何を」
尋ねないのが賢明だと分かっていた――いや、表情で分かった。イームスはひょいとそれを持ち上げて、アイスクリームだと言った。
「アイスクリーム?」
「かぼちゃ味。ハロウィンまでの限定だそうだ。俺たち頼んでないだろ、デザート」
「頼まなかったけど」
「お前の分もある」
サンキューとは言いかねた。会話の先が見えない。アーサーは無言をもって返答とし、実はかぼちゃはそんなに好きではないのだと、率直なコメントを述べるのも差し控えた。
「さて」
イームスは薄く笑い、とぼけたふうを装って投げかけた。
「どこで食おうか?」
とぽとぽとぽ、と赤い液体が揺れている。
「もう一本頼むか?」
空になったボトルを隅に置いて、イームスが問いかけた。アーサーは注いでもらったグラスに口をつけ、お前が飲みたいなら、と返した。高級な店ではない。追加したところでたかが知れており、そこそこの収入を得たばかりでもあった。イームスはメニューを持ってこさせ、薦められるがままに注文していた。
「大した役者だったな、コブって奴は」自ら注いだワインを水のように流し込みつつイームスは言った。「前々から評判は聞いてたが驚いた。俳優にでもなれんじゃないか」
そうだな、とアーサーは応じたが、正直なところコブという名前しか耳に入っていなかった。そうだな、コブは誰より本番に強いから。あたりさわりのない、中身のない返事を反射的に投げる。
腕のいい偽造士を知らないか、次の仕事に必要なんだ。コブにそう持ちかけられたのは今から一ヶ月前のことだ。キャリアは決して長くはないが、心当たりはいくつかあった。けれどあえてイームスを紹介したのは、プライベートと仕事を完全に分けているのだと、誰にともなく証明したかったからかもしれない。幸いにも、表面的には何事もなく終わった。イームスも珍しく――と言っていいだろう、変にふざけたりはせずに淡々と、求められた役割を果たした。結局のところ、波風が立っていたのは己の胸中だけだった。そしていまだにやまない。
「アーサー、そろそろ」
呼びかけられた拍子に、空になった皿の上で弄んでいたフォークを取り落とした。耳障りな音が客の引いた店内に響く。失礼。ひとこと発して時計を見ると、ワインを追加してから二時間が過ぎていた。ろくに喋っていない――少なくとも自分は。つまり二時間ものあいだ、目の前の男をほっぽって物思いに耽っていたというわけだ。さすがに申し訳なく思い、イームスが受け取ろうとしていたチェックを横から奪った。
「ここは俺が払う」
「何言ってるんだよ」とイームスは鷹揚に笑った。「俺が誘ったんだから俺が払うさ。お前ほとんど飲んでないじゃないか。よこせ、ほら」
「いいんだ」
彼に見えないように値段を覗く。想像していたよりは高いが、カードを使うほどでもない。それにお前に奢られる義理はないし。口に出してしまってから、嫌味だったろうかと不安になった。しかしイームスは意に介する様子もなく、ならお言葉に甘えてとあっさり引き下がり、奥のトイレに向かっていった。あまりの引き際のよさに、もしかして最初からそのつもりだったのでは、と一抹の疑いが頭をよぎったがもみ消した。悪いのは俺だ。
勘定を終えて店の外に出る。ぼんやりと明るい曇り空を見上げ、ちっとも酔っぱらっていない自分に気付いた。帰って一人飲み直そうか、そうでもしないと眠れそうにない。歩道のブロックを蹴り付け、あいつの顔を見ないで帰ってしまおうと決心しかけたとき、からん、と扉が開いた。出てきた彼は、小さな袋を持っていた。
「……何を」
尋ねないのが賢明だと分かっていた――いや、表情で分かった。イームスはひょいとそれを持ち上げて、アイスクリームだと言った。
「アイスクリーム?」
「かぼちゃ味。ハロウィンまでの限定だそうだ。俺たち頼んでないだろ、デザート」
「頼まなかったけど」
「お前の分もある」
サンキューとは言いかねた。会話の先が見えない。アーサーは無言をもって返答とし、実はかぼちゃはそんなに好きではないのだと、率直なコメントを述べるのも差し控えた。
「さて」
イームスは薄く笑い、とぼけたふうを装って投げかけた。
「どこで食おうか?」
作品名:小ネタ6 ※801・腐 作家名:マリ