スプーン一杯分の嘘。
「いやあ、最初はコッシーが目を三角にしてね、表に出てサインのひとつでもしてこい、ってうるさいからさ。冗談で『昔、練習場に来たファンの男の人に連れ回されたからイヤだ』って言ったらいきなり深刻そうな顔をするもんだから」
「そりゃ、普通の反応です」
食堂の長机を挟んで座り、麦茶片手に吉田がにこにこと無邪気な笑顔で説明する。
それに横合いから茶々を入れ、赤崎はカレーを口へと運んだ。カレーはすっかりと冷めて薄膜を張っていたが、空腹は最高の調味料だ。気を張っていた反動か、ぐうぐうと鳴る腹を前に皿の上の米とルーはみるみる赤崎の胃袋へと収められてゆく。
「だってコッシーって分かりづらい振りをして、すごく反応が分かりやすいじゃないか。勝手にボクの悲惨な話を想像してるのが分かるから、ついサービスしたくなっちゃってね。恥ずかしい目に遭った、って言ったらそれきり表には出なくていいって言われたよ」
「誰だって、王子のその不親切な説明を聞けば、不幸な想像をします」
「あっ!」
事実、己も吉田のミスリードを誘う言葉に不幸な想像をしていらぬ気を揉んだのだ。
がつがつと鬱憤を晴らすように皿を平らかにした赤崎は、向かい合った吉田の手から麦茶のグラスを奪うと、一気に中身を飲み干した。
ぐいと口元を拭えば、吉田がやんわりこちらを睨む。
「躾のなっていない犬だね」
「で、どうするんです?」
ぽつりと呟かれた言葉をあえて無視して問いかける。それに なにをだい? と心底不思議そうに吉田が首を傾げた。振りではない、本気でなにも理解していないのだ。赤崎はまたぞろスプーンで殴りたくなって、黄色い汚れのこびりついたそれに、諦めた。さすがに、吉田の造作ばかりは良い顔をこれで殴るのは、後が恐ろしい。
「この噂ですよ。いつまで本当のことを黙ってるつもりです? 村越さんだけじゃなくて、あちこち出回ってるみたいスよ?」
正直、意地の悪い見方をすれば、村越の誤解はたとえ、吉田がミスリードを誘ったのだとしても、自業自得である。けれど、噂は村越だけでなくETU内部でかなり広がっているようだ。吉田の言葉ではないが随分と尾鰭がついて第二の誤解、第三の誤解を生んでいる。
「俺だってドリさんからあんだけ脚色された話を……あれ?」
話しながら、ふと、赤崎は奇妙な点に気付き言葉を止めた。
吉田は村越に最初の噂の種を植え付けた。それは静かに広がり、今日、回り回って緑川を経由して赤崎の元へと届いたのだ。けれど。
「二人目って、どうして噂が広がったんです?」
たとえ捩じ曲げられた嘘だったとは言え、村越と言う男が好き好んで仲間のこのような悲惨な過去を広めるとは思えない。だが、現実として噂は広まっている。
では、村越から三人目へと噂を引き継いだ二人目というのはいったい誰なのだ?
言葉を切って向かいの男を見つめた赤崎へ、吉田はまたも静かに口の端を上げた。くふん、と鼻を鳴らし笑う。
「ボクの猟犬はなかなか鼻が利くじゃないか。二人目はドリさんだよ」
「……は?」
「だってあの場所に一緒にいたの、ドリさんだからね。でも、彼にはコッシーが勝手に勘違いしているって分かってるみたいだよ」
「そんなら……」
それでは、つまり今日己が聞かされたのはいったいなんだったのだ。
本日何度目か、呆然と吉田を見つめる赤崎に、男は憎たらしいほどきれいな笑顔を返す。
「つまり、今日、ザッキーが聞かされた嘘はドリさんのイタズラってわけだね。
この噂をイタズラで広めるのは、よくあることだよ。騙された相手もすぐに誰かが種明かしをしているらしいし。バッキーやナッツみたいな単純馬鹿には話さないようにしているから。
無害でかわいいお遊びだろう?」
聞けば、若手を除く殆どのメンバーは、一度はベテラン陣からこの噂話を聞かされ、翻弄されるのだそうで。
そうして、この悪趣味なイタズラを吉田が黙認しているのは、噂を伝える者がきちんと相手を選び、後から吉田を含む誰かがこうして嘘だとフォローを入れることによって、却って噂が一人歩きしないよう管理できるからなのだと言う。
「これもウチのチームの通過儀礼ってヤツだよ。ところでザッキー……」
「なんスか?」
吉田に加え緑川にまで。二人の腹黒にいいように掌の上で踊らされていたと言う事実に、今更ながらに腹を立て、むつりと些かぞんざいに応えを返した赤崎に、微笑んだままの唇へ吉田がゆっくりと一本だけ立てた指先を押し当てた。
内緒、の仕草。
「この話、コッシーには内緒にしておいてくれるんだろうね?」
確かに、吉田からしてみれば肝心の村越にネタがばれてしまえば、せっかくのサービス免除がなくなってしまうわけで。
「ンなの……」
バラしてやるに決まっている。
口にし掛けて、けれど、ばれてしまえばこの腹立たしいばかりの通過儀礼の次の犠牲者がいなくなると言うことに思い至る。
これほど腹立たしいイタズラを、他の誰かに味わわせずに終わらせるなんてつまらないことできるか? それに、あの村越さんの知らない事実があるというのはなにやら少しばかり気分がいい、気もする。
うう、と低く唸りながら逡巡する赤崎はこのもやもやとした気分をやり過ごそうと、手元に引き寄せたグラスに視線を落とし、すっかりと空になったそれに小さく舌打ちをする。
「ね?」
それをどのように解釈したのか、念押しするように問い掛ける男に、赤崎はグラスの中に放り込まれていたスプーンを手にした。そのまま長机の隅に立てられたペーパーナプキンで、念入りに先端を拭う。数枚使ううちに、スプーンは幾分曇りながらも銀色の光を取り戻す。
赤崎はそれを吉田へ向かって振り上げた。
「ンなら、代わりに……」
一発殴らせてください。
スプーンは、吉田のさらさらの髪の間で こつん、と間抜けな音を立てた。
作品名:スプーン一杯分の嘘。 作家名:ネジ