月の影を越えてゆく
穏やかな、穏やかすぎる朝の光。暦の上に春が訪れようと、朝の空気はまだまだ肌寒い。何時まで経っても遠のいていかない冷気と同様の未練がましさで、快斗は暖かな布団の奥へと潜り込む。
「快斗!いつまでもぐずぐずしてないで、さっさと起きてきなさーい!」
苛立ちを交え始めた母親の声は布団の上を素通りしていく。父の亡き後、女手一つで育ててくれた大切な母ではあるが、こんな朝には少しばかり鬱陶しい。
「お父さん行っちゃうわよ!新しいマジック見てもらうんじゃなかったの!?」
がばりと寒さも眠気も忘れて身を起こす。今母は何と言ったのか。お父さん、なんて、快斗が寝汚く布団にくるまっている間に再婚でもしたのか。まだ若い母に生涯未亡人でいろとは言えないが、快斗の父親はただ一人だ。
布団を放り投げ、ベッドから飛び降り、どたどたと怪盗にあるまじき足音を立てて階下へと急ぐ。
それもマジシャンだと?大好きな父であり、尊敬するマジシャンである黒羽盗一の妻を、そんじょそこらの手品師に任せてたまるか。
勇んで飛び起きてきた快斗の目に飛び込んできたのは、信じられない人物だった。
「おや、起きたのかい、快斗」
「私がいくら叩き起しても聞かないのに、お父さんがいたらすぐ起きるんだから。今度からあなたが起こしてちょうだいよ」
「私も毎日いるわけではないからね。甘えてると思えばかわいいものじゃないか」
優雅に朝食を楽しんでいる、その人は黒羽盗一以外の何者でもなかった。