月の影を越えてゆく
「どういうことだ!?説明しろよ!」
紳士ではありえない乱暴さで屋上まで引っ張ってきたクラスメイトに、吐き捨てるように怒鳴りつける。普段の高慢さからはありえないほど、さして抵抗もせずに付いてきた彼女は、取り乱した彼の様子に美しい微笑で答えた。
「何のことかしら?」
「とぼけんなよ。まさか、お前も覚えてねえのか?」
「…パンドラは、願いを叶えたのよ」
「願い、だと?」
―― これが、こんなものが!これさえなければ、親父は死ななかったんだ…!
死んだはずの黒羽盗一が生きている。怪盗キッドは何年も前に引退していて、隣人は警官としてまっとうに働き、娘の手料理が食べられる時間に帰宅する。
それが、ここの『現実』だった。
「夢は現実に、現実は夢に。魔術は為された。貴方の夢よ。何が不満なの?」
「あいつはどうなったんだ?お前の言ってた、光の魔人ってやつは?」
そして、存在さえしていない工藤新一。
「彼はもともと別の世界の存在。貴方達の相似性と、本来ありえなかったはずの数々の出来事が起こってしまったことによって、あちらとこちらは繋がった。だけど、全てがなかったことになって、二つの世界は再び離れたの。もう二度と重なることはないでしょう」
不死の力を持った伝説の石。人の時間を巻き戻す禁断の薬。不可能なはずのそれが、叶えられてしまった時、二つの世界が重なった。そして、石が消え、怪盗が消え、二つの世界は接点を失った。
「じゃあ、あいつはまだコナンのままなのか?」
「わからないわ。二つの世界は確かに繋がっていたのだから、この世界の変化があちらにも影響を与えたかもしれない。それを知る術はもうないわ」
「忘れなさい。そして、今度こそ戻ってきた幸せを大切にしなさい。それが、今の貴方にできる唯一のことよ」
彼女の言葉は正しい。尊敬する父親。幸せそうな母親。明るい顔で笑う幼馴染。
すべては望んだ世界。
「名探偵を忘れる?」
それなのに、この空虚さは何だろう。
知っている。わかっている。彼がいない。ただそれだけのことで。
「それが、あなたの望んだ幸せでしょう」
頷くことはできなかった。違うとも言えなかった。
ただ、忘れられない蒼が頭の隅でいつまでも輝いていた。