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月の影を越えてゆく

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ここは幸せだ。父親は健在で、昨晩も新作のマジックを披露してくれた。母親は毎日夫と息子の世話を焼き、夫婦仲もいい。幼馴染は、帰ってこない父親への心配に苛まされずに、年頃の娘らしい生活を楽しんでいる。

そして、願いを叶えたはずの快斗は今日も眠れない。夢を見る毎に遠くなる蒼い眼差しが苦しくて。

喪失は、何よりも恐ろしい。死が生命の喪失ならば、忘却は存在の喪失だ。

「会いてえよ、名探偵」

失うなんて考えたくなかった。

白い怪盗の名残なんかじゃない。月に狂わされたわけでもない。
だって、夜空を翔けた大怪盗は俺で、小さくなっても探偵であることを諦めないあいつを失えないのも俺だ。
お前を忘れるくらいなら。必死に真実にしがみついてたお前を嘘にするくらなら。

そんな現実はいらない。

そう思った瞬間、いい加減限界に来ていた眠気の押されて、快斗は夢の淵に転がり落ちた。



赤い女がいた。

紅子ではなかった。全身を赤く輝かせた、明らかに人間ではない女。

ああ、お前か。

すんなりと快斗は納得した。ずっと追いかけていた。ずっと知っていた。夢のような現実の中、姿を表さなくとも彼女はずっとそこにいた。


 ーなあ、返してくれよ 


 ーなにを


 ーあいつと出会った現実を


 ーそれは夢よ 

  今の幸せこそが現実 

  あなたを苦しめる悪夢は何もない


 ーあいつと出会ったことを夢になんてしたくない 

  あいつの存在が夢だったなんてそんな方が悪夢だ 

  なあ、もうどうしても会えねえのか?


 ーあれは本来別の世界だから、会うためには向こうに行かなくてはいけない

  行っても戻ってこれる保障はない

全部捨てるとでも言うの

  あなたが望んだ幸せなのに

  たとえ、世界を越えても、向こうに怪盗キッドはいないわよ 


 ーそれでも行くよ
 
  ここには果たすべき使命も何もない 

  このまま全部夢ってことにして忘れて幸せになれるのかもしれない 

  でもそれは違うんだ 

  あいつは別なんだ たった一人なんだ あいつにとってオレもたった一人なんだ


 ー彼があなたを覚えてる可能性は無きに等しいわ 

  探偵でいるかどうかも分からないわよ

あなたが怪盗でなくなったように全く違う人生を歩いてるかもしれない 
 
  全くの別人になってるかもしれない そんなもののために全部捨てるの?


 ーオレが怪盗じゃなくなってもあいつは絶対に探偵をやってるさ 
 
  もしやってなかったとしても工藤は工藤なんだろ 
 
  人を助けるためなら炎の中にでも飛び込んでいく奴なんだ 

  そこにあいつがいるなら俺は空の上だろうが海の底だろうが飛んでいくよ


 ー何がそんなにあなたたちを繋ぐの


 ーわからない 

  嘘だらけで出逢った俺たちは何を交わしてもどれが本当かなんてわからない

  でもであったことだけは真実なんだ 

何を捨ててもそれだけは失えないんだ

  オレ達が出逢ったことをなかったことになんかしたくない


 ーそのために全てを捨てていくの?捨てられるの?



全ての罪と覚悟が藻屑と消えても、忘れない。忘れるわけがない。君と出逢った奇跡。君が君になった、俺が俺になった軌跡を。


作品名:月の影を越えてゆく 作家名:川野礼