秘めた恋
愛してる。
ただそれだけなのに、どうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。
帝人が居住地であるマンションのロビーに足を踏み入れたと同時に、エレベーターから兄と見知らぬ女性が降りてきた。豊満な肉体を兄にぴたりとくっつけて、その腰には兄の手が添えられていた。
(ああ、また違うひと)
そういえば学校にも来ていなかったようだったから、(いつも聞こえる破壊音が今日は無かった)また部屋に女の人を連れ込んでいたのだろう。
何をしていたかなんて考えたくもなかった。
「おかえり、帝人」
「・・・・・ただいま」
白々しく笑う兄に帝人は伏せていた瞼を押し上げ、静かに応えた。女性は帝人の顔をじろじろと見て、わざとらしく声を潜めて「この子誰?」と兄に聞いていた。
「妹だよ」
兄の言葉に好奇と僅かな愉悦の視線が帝人に降りかかる。帝人はぺこりと頭だけを下げて、二人の横を足早に通り過ぎようとした。
「――――帝人」
「ッ、」
手首を捕まえられ、反射的に帝人の身体がびくりと震える。それを恥じるように唇を噛んで、帝人は「・・・何?」と視線だけを兄へと向けた。兄はやはり笑ったままで、一度だけ帝人の手首を強く握り、そして離した。
「今日は遅くなるから、戸締りして先に休んでていいよ」
「・・・・わかった」
帝人は今度こそ彼らから逃げるようにエレベーターへと飛び乗った。部屋がある階のボタンを押す。その指がみっともなく震えていることに帝人は嫌悪した。
(いやだいやだもういやだつらいくるしいなんでこんな)
渦巻く思考に視界がぼやける。泣きたくはない。こんな想いのせいで涙を流したくはなかった。こんな、不毛で、碌でもない恋のせいなんかで。泣きたくなんかないのに。
音を立てて部屋の中へと滑りこむ。そのまま扉を背に、帝人は小さな身体をさらに小さくして蹲った。そうでもしないと溢れて出てきそうだったから。
(このまま消えてしまえたら)
もう何度目かもわからない願望を口の中で噛み潰して。帝人はただただ声を押し殺して、泣いた。
紛れも無く血の繋がった兄を、ただひとりの男として愛していると気付いたのは何時だったか。帝人の初めての恋は、混乱と苦しみとそして絶望を齎す碌でもないものだった。妹である帝人と同居していても、見るたびに違う女性を連れ込んでいる最低の兄。
(だけど妹の帝人には優しくて甘いひと)
顔だけは良くて、性格は最悪な、人間としてどこか歪な男のひと。それでも好きなのだと、自覚するたびに帝人は自分を殺したくて、消したくてたまらなくなる。そしていつだって帝人は(できもしないくせにね)と嗤うのだ。
遅くなると言っていた兄は結局帰ってこなかった。人の気配のしない広すぎる部屋は逆に息苦しくなる。そのせいか、帝人はいつもより早くマンションを出て、通い慣れた通学路をひとり歩く。泣き疲れと寝不足でぼんやりとする頭に苛立ちを隠せず想わず舌打ちをしたら、後ろから「あら、今日はご機嫌斜めのようね」と声を掛けられた。
「波江さんっ」
慌てて振り返れば、同じ制服を着た女子生徒が「おはよう」と微笑んだ。
一学年上の先輩である矢霧波江とは兄を介して知り合った。初めて会った時は、帝人は兄に対し遠慮も欠片も無い波江に驚いた。波江は波江で、「あの男にこんな可愛い妹がいるなんて」と思っていたらしい。今では帝人は波江を姉のように慕い、波江も帝人は可愛い妹のように接している。
「朝から景気が悪い顔をしているわね。眠れなかったの?」
ほっそりとした綺麗な指が帝人の目元を優しく撫ぜる。慕っている姉のようなひとに言われ、面映ゆさと申し訳なさを同時に感じる。
「ええっと、はい、ちょっと寝るのが遅かったので」
そう帝人が応えると、波江はじっと帝人の顔を観察するように見つめ、そしてため息を吐いた。
「―――面白くないわね」
「波江さん?」
ことりと首を傾げる帝人に、眉を顰めたまま、けれどどことなく仕方なさそうに波江は笑った。
「臨也のせいでしょ」
「え、」
「また、泣いたのね」
どうやら全て見抜かれていたらしい。帝人がはんなりと眉を下げると、波江は歩みを再開させつつ、可愛い妹分の髪をそっと梳いた。
「教室に行く前に保健室によって、冷やすものでも貰ったほうがいいわね。赤く腫れて痛々しいったらないわ」
「・・・・すみません」
「悪いのはあの最低最悪男よ。貴方のせいではないわ」
きっぱりとそう告げる波江に、帝人は幾分か救われるように笑った。
保健室に入ったら、帝人の顔を見た保健医に「休んでいきなさい」と開口一番に言われてしまった。よほど酷い顔をしていたのだろうかと今更ながらぺたぺたと顔を触ってみる。そんな帝人に波江は呆れた顔をしながらも、担任の先生に伝えとくわと告げて出て行った。世話をかけてしまう自分に情けなさを感じながらも、帝人は厚意に甘えることにした。
白い清潔なベットに横たわると、身体が一気に脱力して、意識が曖昧になる。ああ、やっぱり限界だったのかと他人事のように思いながら、帝人は目を閉じた。
遠くで誰かが泣いている。
あああれは小さい頃の僕だ。
泣き虫で弱虫で臆病だった僕だ。
じゃあ隣にいるのは、誰?
泣きじゃくる僕の頭を不器用にけれど優しく撫でてくれる男の子は、
(だあれ?)
目元を温かな温もりが触れたのを感じて、帝人の意識がふわりと浮上する。
眼球と張り付き重くなった瞼を、睫毛を震わせながらそっと押し上げた。その拍子にぽろりと落ちた雫を掬い取ったのは帝人ではない誰かの指。
「―――せんせぇ?」
もしかして眠りすぎた帝人を心配した保健医が様子を見にきてくれたのかと、帝人はぼんやりと呼んだ。起きぬけで掠れた声が帝人の喉を震わせる。ぼやけた視界に映る人影が、動いた。
「ああ、起しちゃった?」
兄の声だ。帝人は瞬きをした。また雫が落ちるのを、白い指先が拭った。ああ、先から優しく触れていた温もりがこの手だったのか、と帝人は眠りと覚醒の狭間で揺れながら思う。
でも、どうしてここにいるんだろう。
兄は帰ってこなかった。だから今日も学校には来ないのだとそう思っていた。
「・・・・帝人?」
優しい声。久しく聞いていなかった柔らかな音。
(ああ、これは夢なのか)
己の願望が創り上げた、ただの夢。そうか、と帝人はひとり納得して、夢ならばと、そっと手を動かした。目尻に触れていた手に帝人はそっと触れる。一瞬強張ったそれはけれどすぐに心得たように帝人の手を握り締めてくれた。
「甘えただね、珍しい。怖い夢でも見た?」
からかい混じりの声が降る。
「・・・・わかんない」
「そう?まあ手を握ってたほうがいいなら、そうしとくけど」
「・・・・・うん、握ってて、今だけでも、いいから」
これは夢なのだ。だから帝人は秘めた想いを薄く開いた唇からそっと零す。
「にいさん」
「うん?」
「にいさん、だいすきだよ」
「・・・・・みかど?」
ほとり、ほとり、と涙が伝い落ちて、白いシーツに吸い込まれていく。
「好きなの、兄さん。・・・ごめんね、・・・・ごめんなさい」
好きになって、ごめんなさい。
夢の中だけでも、素直になりたかった。
ただそれだけなのに、どうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。
帝人が居住地であるマンションのロビーに足を踏み入れたと同時に、エレベーターから兄と見知らぬ女性が降りてきた。豊満な肉体を兄にぴたりとくっつけて、その腰には兄の手が添えられていた。
(ああ、また違うひと)
そういえば学校にも来ていなかったようだったから、(いつも聞こえる破壊音が今日は無かった)また部屋に女の人を連れ込んでいたのだろう。
何をしていたかなんて考えたくもなかった。
「おかえり、帝人」
「・・・・・ただいま」
白々しく笑う兄に帝人は伏せていた瞼を押し上げ、静かに応えた。女性は帝人の顔をじろじろと見て、わざとらしく声を潜めて「この子誰?」と兄に聞いていた。
「妹だよ」
兄の言葉に好奇と僅かな愉悦の視線が帝人に降りかかる。帝人はぺこりと頭だけを下げて、二人の横を足早に通り過ぎようとした。
「――――帝人」
「ッ、」
手首を捕まえられ、反射的に帝人の身体がびくりと震える。それを恥じるように唇を噛んで、帝人は「・・・何?」と視線だけを兄へと向けた。兄はやはり笑ったままで、一度だけ帝人の手首を強く握り、そして離した。
「今日は遅くなるから、戸締りして先に休んでていいよ」
「・・・・わかった」
帝人は今度こそ彼らから逃げるようにエレベーターへと飛び乗った。部屋がある階のボタンを押す。その指がみっともなく震えていることに帝人は嫌悪した。
(いやだいやだもういやだつらいくるしいなんでこんな)
渦巻く思考に視界がぼやける。泣きたくはない。こんな想いのせいで涙を流したくはなかった。こんな、不毛で、碌でもない恋のせいなんかで。泣きたくなんかないのに。
音を立てて部屋の中へと滑りこむ。そのまま扉を背に、帝人は小さな身体をさらに小さくして蹲った。そうでもしないと溢れて出てきそうだったから。
(このまま消えてしまえたら)
もう何度目かもわからない願望を口の中で噛み潰して。帝人はただただ声を押し殺して、泣いた。
紛れも無く血の繋がった兄を、ただひとりの男として愛していると気付いたのは何時だったか。帝人の初めての恋は、混乱と苦しみとそして絶望を齎す碌でもないものだった。妹である帝人と同居していても、見るたびに違う女性を連れ込んでいる最低の兄。
(だけど妹の帝人には優しくて甘いひと)
顔だけは良くて、性格は最悪な、人間としてどこか歪な男のひと。それでも好きなのだと、自覚するたびに帝人は自分を殺したくて、消したくてたまらなくなる。そしていつだって帝人は(できもしないくせにね)と嗤うのだ。
遅くなると言っていた兄は結局帰ってこなかった。人の気配のしない広すぎる部屋は逆に息苦しくなる。そのせいか、帝人はいつもより早くマンションを出て、通い慣れた通学路をひとり歩く。泣き疲れと寝不足でぼんやりとする頭に苛立ちを隠せず想わず舌打ちをしたら、後ろから「あら、今日はご機嫌斜めのようね」と声を掛けられた。
「波江さんっ」
慌てて振り返れば、同じ制服を着た女子生徒が「おはよう」と微笑んだ。
一学年上の先輩である矢霧波江とは兄を介して知り合った。初めて会った時は、帝人は兄に対し遠慮も欠片も無い波江に驚いた。波江は波江で、「あの男にこんな可愛い妹がいるなんて」と思っていたらしい。今では帝人は波江を姉のように慕い、波江も帝人は可愛い妹のように接している。
「朝から景気が悪い顔をしているわね。眠れなかったの?」
ほっそりとした綺麗な指が帝人の目元を優しく撫ぜる。慕っている姉のようなひとに言われ、面映ゆさと申し訳なさを同時に感じる。
「ええっと、はい、ちょっと寝るのが遅かったので」
そう帝人が応えると、波江はじっと帝人の顔を観察するように見つめ、そしてため息を吐いた。
「―――面白くないわね」
「波江さん?」
ことりと首を傾げる帝人に、眉を顰めたまま、けれどどことなく仕方なさそうに波江は笑った。
「臨也のせいでしょ」
「え、」
「また、泣いたのね」
どうやら全て見抜かれていたらしい。帝人がはんなりと眉を下げると、波江は歩みを再開させつつ、可愛い妹分の髪をそっと梳いた。
「教室に行く前に保健室によって、冷やすものでも貰ったほうがいいわね。赤く腫れて痛々しいったらないわ」
「・・・・すみません」
「悪いのはあの最低最悪男よ。貴方のせいではないわ」
きっぱりとそう告げる波江に、帝人は幾分か救われるように笑った。
保健室に入ったら、帝人の顔を見た保健医に「休んでいきなさい」と開口一番に言われてしまった。よほど酷い顔をしていたのだろうかと今更ながらぺたぺたと顔を触ってみる。そんな帝人に波江は呆れた顔をしながらも、担任の先生に伝えとくわと告げて出て行った。世話をかけてしまう自分に情けなさを感じながらも、帝人は厚意に甘えることにした。
白い清潔なベットに横たわると、身体が一気に脱力して、意識が曖昧になる。ああ、やっぱり限界だったのかと他人事のように思いながら、帝人は目を閉じた。
遠くで誰かが泣いている。
あああれは小さい頃の僕だ。
泣き虫で弱虫で臆病だった僕だ。
じゃあ隣にいるのは、誰?
泣きじゃくる僕の頭を不器用にけれど優しく撫でてくれる男の子は、
(だあれ?)
目元を温かな温もりが触れたのを感じて、帝人の意識がふわりと浮上する。
眼球と張り付き重くなった瞼を、睫毛を震わせながらそっと押し上げた。その拍子にぽろりと落ちた雫を掬い取ったのは帝人ではない誰かの指。
「―――せんせぇ?」
もしかして眠りすぎた帝人を心配した保健医が様子を見にきてくれたのかと、帝人はぼんやりと呼んだ。起きぬけで掠れた声が帝人の喉を震わせる。ぼやけた視界に映る人影が、動いた。
「ああ、起しちゃった?」
兄の声だ。帝人は瞬きをした。また雫が落ちるのを、白い指先が拭った。ああ、先から優しく触れていた温もりがこの手だったのか、と帝人は眠りと覚醒の狭間で揺れながら思う。
でも、どうしてここにいるんだろう。
兄は帰ってこなかった。だから今日も学校には来ないのだとそう思っていた。
「・・・・帝人?」
優しい声。久しく聞いていなかった柔らかな音。
(ああ、これは夢なのか)
己の願望が創り上げた、ただの夢。そうか、と帝人はひとり納得して、夢ならばと、そっと手を動かした。目尻に触れていた手に帝人はそっと触れる。一瞬強張ったそれはけれどすぐに心得たように帝人の手を握り締めてくれた。
「甘えただね、珍しい。怖い夢でも見た?」
からかい混じりの声が降る。
「・・・・わかんない」
「そう?まあ手を握ってたほうがいいなら、そうしとくけど」
「・・・・・うん、握ってて、今だけでも、いいから」
これは夢なのだ。だから帝人は秘めた想いを薄く開いた唇からそっと零す。
「にいさん」
「うん?」
「にいさん、だいすきだよ」
「・・・・・みかど?」
ほとり、ほとり、と涙が伝い落ちて、白いシーツに吸い込まれていく。
「好きなの、兄さん。・・・ごめんね、・・・・ごめんなさい」
好きになって、ごめんなさい。
夢の中だけでも、素直になりたかった。