豊穣への詫び状
老婆が新しい急須を持ち、主であるイヅルがそれを軽い謝辞とともに受け取るのを、恋次は目のはしに収めていた。さくっさくっ、と文字通り時を刻む秒針の音が、妙に大きく響いては澱のように部屋の底へと溜まってゆく。客間の障子が閉められて使用人が姿を消すと、恋次はおもむろにその口を開いた。
「霊術院を出て、三十年か……長いのか短いのか、いや、まだ短いか……? とにかく、思い起こせば早かったような気がしてな。まぁ、そのたった三十年前まではよ、ここももっとうるさかったな」
いきなり何を言い出すかと思えば、とイヅルは笑って答え、恋次の真向かいに腰を落とした。使いこまれた卓の天板にその影が差し、恋次の手元がふと暗くなる。「しみじみ感じ入ってんだよ」と混ぜっ返した彼の面(おもて)をちらりと見やったあと、イヅルも何かを想い出すように視線を横に滑らして、旧友が思い出しているのであろう、あの若い日々へと思いを巡らした。
「院時代はさ、家持ちって僕ぐらいだったじゃない? みんな流魂街出身だったから。だからよくたまり場にされたねぇ……」
「それでお前の内職手伝わされたりしたな。籠編みとか。貴族の中で、学資援助受けてるのってお前くらいだったから、みんな上がりこみ易かったんだろ」
「院生が一家を支えるっていうのは、なかなかつらいものだったよ」とイヅルは苦笑いし、新しく煎れなおした茶を湯飲みに注いで一息つく。ほぼ家族同然であった使用人の老夫婦に暇を出すこともできず、また小さくとも代々受け継いできた家を手放すこともできず、大きな稼ぎ口のなかった霊術院時代は、日々の食い扶持を得るだけで一苦労だった。
「副隊長っていうのは激務だけど、収入も肩書きも申し分ないからね。……君もじきだよ。雛森さんも檜佐木先輩もそう言ってる」
じき、という言葉に力をこめて彼はそう言い、真正面から恋次の顔を見据えた。同期のイヅルや雛森桃が副隊長の座に就いているのに対し、いまだ十一番隊の第六席に留まっている恋次に焦りがないわけではない。それは彼の力量を十分に知っている旧友たちも同じであり、ときには隊長格に劣らぬほどの凄まじい霊圧を発し、真っ赤な髪をふり上げて斬魄刀をふるう姿の鮮やかさは、まるで連獅子の舞を見るごとくであった。それほどの逸材が、ただの席官で終わるはずがない――先んじて副官位を得たイヅルも桃も、彼ら特有の几帳面さか人の良さ故か、その心の底からの想いを隠すことができずにこぼすことがあった。
それに君は、僕らのように誰かを追ってるわけじゃない。追い越そうとしてる人なんだから、とイヅルは続けようとしたが、手にした湯飲みをくっと傾けてその声を飲みこむ。代わりに「僕たちと違って、君は進めるよ」と言い添えて、湯飲み茶碗を空にした。
「お前、やっぱりどうも暗いよな……そんなんだと女も寄りつかねぇだろ……」
「それで結構だよ。それにその辺は、もともと市丸隊長一人勝ちな隊だし」
お互い叶わぬ思いで数十年、だろ?と言って笑い、イヅルは恋次の揶揄をあっさりといなしてみせた。似たような会話を、それこそ院生時代から幾度繰り返してきただろう。
「少なくとも君は、まだ破れたわけじゃない。だから君は進めるんだよ。僕と違ってね。……そしてやがては、あのすばらしく堅牢で大きな朽木の家門に挑むんだろう?」
この家の小さな門構えに気圧されることなんて、もうなくなったみたいだしね、とイヅルは胸中で呟き、先ほど落葉を拾うついでに錠を下ろしてきた庭の裏木戸を思う。恋次は気恥ずかしそうに視線を逸らしたがすぐに向き直り、おう、と低くしかし確かな声音で諾(うべな)った。イヅルは微笑するとともに軽くあごを引いて応えると、語気を明るいものへと転じさせて、懐かしついでにひとつ、と切り出す。
「昔のように休日がそろうことはないだろうけど、今度は雛森さんや朽木さんを誘って、みんなで昼ご飯でも食べに行こうよ。昼休みなら時間も合わせられそうだしね」
「おう、いいな。なに食いに行く?」
恋次もまたその目に気安さを宿らせて、心持ち身を乗り出すようにその誘いを聞く。
「落ち鮎なんてどうだろう? ちょうど時期だよ。初物を食べると寿命が七十五日延びるって言うし」
悪い提案じゃねぇな、と恋次は呵々と笑い、その芳しさで鼻腔をくすぐる鮎のやわらかな白身を思い起こしてその顔を喜色に染める。
「じゃあ決まりだね。では君が朽木さん、僕が雛森さんに連絡しよう。季節のものだから、なるべく早い方がいい」
イヅルがそう言って障子の方へ顔を向けると、その目はとたんに斜陽の橙に滲み、眼球の底をぐっと圧すような眩しさに瞳孔が収縮した。
「阿散井くん、秋の日は本当につるべ落としだね。一日が短い」
呼びかけたにも関わらず、まるで独り言のような声音でつぶやいたイヅルの顔は、恋次から見ると長い前髪にすっかり隠されてその表情をうかがうことはできない。恋次は頬杖をついてにやりと笑い、「アユ一匹の霊子で七十五日か……笑えねぇ冗談だなぁ、おい」と茶を濁す。その声にイヅルはゆっくりと視線を戻し、彼らしい困ったような微笑を返した。
秋の入り日を受けた障子は真っ赤に染まり、その上にはめた欄間からは金を帯びた斜光が差しこんでくる。その光にイヅルの髪が細々と燦めき、恋次の髪は赤銅に染まったが、しだいに色彩も薄れていった。夕日の残喘はいまにも消えようとし、庭に冷たい夜気が流れこんで来たころに、恋次は吉良宅をあとにした。長い長い影を引きずって街路を行く彼の背に、夕餉の飯を炊く煙の上る吉良家の屋根に、深い藍色が覆いかぶさっていく。秋の日は早くも落ちたのである。