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レイン

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窓の外に響く雨音が強くなっている気がして、静雄は「そろそろ帰ります」と腰を浮かせた。
旨い肴が手に入ったからと誘われ、仕事帰りにトムの部屋を訪れて数時間。飲み始めた頃から降り出した雨は、その勢いを少しずつ増しているようだった。
「泊まって行けばいいべ」というトムの言葉は非常にありがたいものの、出来ればそれはしたくない。
避けたい理由と事情が、静雄にはあった。
「大丈夫かー? おまえ今日けっこう呑んでたろ」
「そんな酔ってないっすよ」
「ははっ! 酔ってるやつもみんなそう言うんだよ。んじゃま、気を付けて帰れな」
「……うす。トムさんも、ゆっくり休んで下さい」
トムに借りた傘を手に、小さく頭を下げる。
本当は、トムの言葉に甘えてしまいたかった。
雨が強くて、帰れないほどになればいいのにと、どこかで願っている自分がいる。けれども、もし本当にそうなったら困るのは自分だということも、十分すぎるほどに理解していた。
こうして二人きりで過ごすことには慣れたものの、泊まりなどとなれば平静でいられる自信はない。
だから、帰らなければいけない。
「おう。んじゃ、おや……」
しかしこれが天の配剤というものか、そんな静雄の決意を打ち砕くように、トムが開けたドアの向こうでは信じられないほどの豪雨が地面を叩きつけていた。おやすみ、と言いかけたトムが絶句している。
「……」
「タイミング悪かったなー静雄ー」
一旦パタリとドアを閉めて、トムが笑いを堪えるような間延びした声で振り返った。
静雄も、今見た光景が信じられなくて、唖然と目を見開く。
つい今しがたまで、強いとはいえ土砂降りとまではいっていなかったというのに。帰ろうとした途端に急激にきつくなるなんて、本当にタイミングが悪すぎる。
――こんな事って、……
あるのかよ。そう思ってから、僅かな既視感がよぎった。

そうだ、以前にも。
あの時もトムさんと――。
思い出すと同時に、その単語が口から零れた。

「遣らずの雨……」

***

放課後にテストの勉強をみてもらう約束をしていたその日、午後から雲行きの怪しくなった空はとうとう6時間目の授業が始まる頃には雨を降らし始めてしまった。こうなってはもう、いつものように屋上で過ごすことは出来ない。
互いの教室は気兼ねがあるし、静雄が絡まれる可能性も高い。図書室も然り。それにこんな天気では、人が多いのは確実である。
そんなわけで、「今日は諦めて帰りましょう」と6時間目の終了を告げるチャイムを聞きながらそう言おうと決めていた静雄は、けれども教室の入り口で待っていたトムの「ウチに来るか」という提案に、気付けば一も二もなく頷いていた。
静雄が人並ならぬ膂力に目覚めてしまって以来、誰かの家に誘われたのはこれが初めてだった。
しかも、誘ってくれたのは大好きな先輩。
驚きすぎて、すぐには言葉が出てこないほど嬉しかった。
両親共働きで夜まで一人だから気兼ねするなと笑ったトムの言葉に甘えて、静雄はそのままトムの家で雑談交じりに勉強をみてもらった。
そうして数時間を過ごす間に雨音も静かになり、そろそろ帰ろうと腰を上げた静雄が玄関まで来たとき。
物凄い音を立てて、雨が急激に強さを増した。
「……え!? さっきまで止みかけてたっすよね!?」
「おー……すげえな。静雄、おまえなんか悪いことしたんじゃねーの」
「し、してないっすよ! おれ、そんなん……!」
「ははっ。まあそれかあれだな、遣らずの雨ってやつだな」
「やら……? なんすか?」
トムはよく妙なことを知っている。
勉強も、それ以外のことについても何かと詳しかったトムは、いつも静雄の知らないことを沢山教えてくれていた。そのひとつひとつが、静雄のなかに積っている。
この時もいつもと同じで、眉間にシワを寄せて聞き返した静雄に、トムは「遣らずの雨」という雨の名前があることを教えてくれた。
曰く、好きな相手を帰さないように降る雨のことを指すらしい。

好きな相手を。
帰さないように。

その言葉の意味を理解した途端、静雄の心臓がばくばくとうるさく騒ぎたてる。
「……あの、それって」
「静雄が帰っちまうの、寂しいなーと思ったからなあ」
そう言ってぐしゃぐしゃと頭をかきまわされて、静雄は赤面しながらも必死で「おれもです」と言いそうになるのを堪えていた。
心臓の音がうるさすぎて、このままではトムに気持ちがばれてしまうと、静雄は慌てて話題を逸らす。
「せ、先輩、ほんっと色々知ってるっすね……」
「おうよ、トムさん何でも知ってっからなー。何でも聞けよ?」
わはは、と冗談めかして言われたトムの言葉に、静雄は懸命に神妙な顔をして頷きながら、決して聞くことのできない問いを飲み込んだ。

本当に、何でも知っているのなら。
俺の気持ちも。
知ってるんですか。

静雄は時々、トムがわからなくなる。
わからなくなるような言動を、トムがするからだ。
けれども親しい人間の少ない静雄にとってはその微妙な行動のひとつひとつを判断するのは難しすぎて、とにかく嫌われてしまわないよう、自分の感情が漏れてしまいそうになるのを必死で抑えるのが精一杯だった。

結局その日はそのまま、静雄は帰れないこともないからと言って、土砂降りの中を帰路についた。
それは半分本当で、半分言い訳だったけれど。

トムの家に遊びに行ったのは、これが最初で最後だった。

***

「珍しいな、お前がそんな言葉知ってるなんて」
ぽつりと零れた単語に、トムは驚いたようにまじまじと静雄の顔を見つめた。さりげなくその視線から目を逸らして、静雄は僅かに表情を翳らせる。トムはもう、あの時の事は覚えていないのだろうか。
「……トムさんが教えてくれたんじゃないすか。中学ん時、俺、トムさんち遊びに行ったことあったすよね。そん時に……雨、降ってて」
「……ああ! おっまえ、よく覚えてたなあ」
静雄の説明で思い出したようで、トムは感心したようにそう言って口元を緩めた。
トムが覚えていてくれたことにほっと喜び、静雄は「うす」と小さく頷く。
「トムさんに聞いたことは、大体覚えてるんで」
「はっは! 大体、な」
「……うす」
あなたに聞いたことは全部覚えている。なんて、このまえ観た幽の映画のセリフみたいなのは、現実ではちょっと使いにくい。
「まあでもあれだな、確かに静雄が帰っちまうのは正直寂しいけどよ。本人からそれを言われると照れるなあ」
言って、本当に照れたように頭に手をやったトムに、静雄はその言葉の意味を今更ながらに思い起こしてはっとした。
好きな相手を、帰さないように降る雨。
これでは、トムが静雄を帰したくないと言っているようなものである。
「あ……っすんません、俺そういうつもりじゃなくて、その……っ」
なんて図々しいことを言ってしまったのだろうと、静雄は真っ赤になって俯いた。急激に、恥ずかしさがこみ上げる。そういうわけではないのだと、説明しなければと焦るあまりに、言葉が上手く出てこなかった。
何と言ったら上手く誤魔化せるのか、わからない。
早くここから帰らなければという無意識が、余計に静雄を焦らせた。
けれど。

しどろもどろで並べ始めた言い訳は、トムの言葉によって遮られた。
作品名:レイン 作家名:ユトリ