やまない、雨に。
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「ほれ、コーヒー飲め。暖まるぞ」
「……」
結局、鳴介は教室や職員室を覗いた結果、自分が体育の受業で使うジャージを上下ひとそろいを持っていくことにした。これなら、多少のサイズ違いはなんとかなる。
大人しく寝巻きに着替え、タオルを肩にベッドに腰掛けている玉藻へ、これまた保健室備えのインスタントコーヒーを入れたカップを手渡す。
「…まだ、話せる感じじゃないか…?」
自分もまた湯気の出るカップを手に、鳴介は玉藻の側に椅子を引き寄せて座る。
「……なくなったんです…」
唐突に、ぽつりと呟いた。
「なくなった…って、何の話だ?」
「私の、担当している患者の…話ですよ。…亡くなったんです。今朝方…」
うつむいたまま、カップを強く握りしめる。
「…老衰、……だったのですけど…」
「…しょうがないさ、寿命なら。お前がいちいち気に病むことじゃないだろう?」
「…その、患者は…家族が誰もいない人で、私を、自分の息子か孫のように思っていて…私の髪を、仏様の光のようだとよくおっしゃっていて…」
「…うん…それで?」
「息を引き取る間際、私に向かって手を合わせたのですよ。私に向かって…『ありがとう』……声が出せないから、口の動きだけでしたけど…そう言って、逝かれたんです」
「…よかったんじゃ、ないか? そんなふうに思ってくれたんなら…」
「そう、なんでしょうか…よくわかりません…」
そこでようやく、形のよい唇がコーヒーを含む。
「判らないんですが、気持ちが…落ち着かなくて……午前中の仕事も、手につかなくて……病院、無理を言って早退してきたんです」
「早退……」
(……まさか、こいつがこんなだから雨降ってるって訳じゃないよなぁ……)
まさか、と思いつつも、思わず窓の方を見てしまう。いつもの妖狐らしからぬ行動だ。
「いったい…何なのでしょう…この…胸の穴は」
「玉藻…」
「今まで…死に行く人間など、飽きるほど見てきたというのに…」
片手にカップを持ったまま、空いた片手で髪をかきあげるようにして、そのまま己の頭を覆った。
「お前…」
―――――やっぱり……泣いてたんだな………――
所在なげに座り込むこの男の姿を見たとき、訳もなくそう思った。
濡れた頬は、ふりやまぬ雨のせいばかりではないだろう、と。
同時に、この男が涙を持っているなんて…とも思った。
信じられない、と。けれど……基本的に涙に弱い鳴介は、手を差し伸べるのだ。相手が誰であろうとも。たとえそれが、人でなかろうとも。
「…?…先生…」
力強い腕に包まれていることに、玉藻はうろたえ、身じろいだ。
「人は…慰めるときはみんなこうする」
「…慰め…ですか」
「そう…慰めが欲しくて…だから俺の所(ここ)に来たんだろ…?」
「……わから、ない…でも」
押し当てられた胸から、力強いリズムと、体温が伝わる。熱い…生命の営み。
「悪い気持ちでは、ないです…」
「そっか…」
確かに、これは心地が良かった。けれど鳴介の熱があまりに熱くて…玉藻は顔を起こそうとした。けれども彼の黒い左手がそれを阻む。
「…泣くな…いや、違うな……泣いてもいいんだ。ここなら誰も見てはいない」
そう言われて玉藻は、初めて瞳を、頬を濡らすものを…涙を知った。つめたい頬に流れる熱い雫。
熱いと感じたのは、彼の胸だけではなかったのだ。
「…あなたが、見ている…」
それには応えずに、ただ抱きしめる腕に鳴介は力を込めた。
『妖』である彼自身は気づいていないのか。
物の怪特有の――的な魅力に、鳴介は乾く唇を何度も湿した。
「――――それも慰め、ですか?」
「え…あ!!」
言われて鳴介は体を放す。無意識に、相手の肩口へと唇を滑らせていたなんて…なんたる失態。
「わるい…! いや、あの…そんなつもりじゃ」
「では、どういったおつもりで?」
今度は鳴介の方がたじろく番だった。
一体全体、自分はどういうつもりでそんな行動をとってしまったのか。
『どういったつもりで』――玉藻の問いが静かに鳴介の裡でこだまする。
はじめはただ――ただ慰めるつもりで。
けれど次第に――『欲』という焔に煽られて。
「そういう慰めでも、私はかまいませんが」
困惑風の鳴介に、気楽な提案のごとく言葉をかける。
獣の匂いと、蠱惑のひとみ。
「…ここで、か?」
「今さら、何を仰っているのですか。どちらにせよ決断なさるのはあなたですし、どうせなら私の気が変わらぬうちに」
ゆるやかな渦が引き込むように、男にしては嫋やかな腕が誘(いざな)う。
すこしばかり窮屈なベッドの上。
いまだ湿った薄い金色の髪が、波のように、または幾筋もの小川のように白いシーツの上でうねる。そして、源流は…細く、白い面(おもて)。
ひた、と見上げてよこすその顔は、あまりにも純粋(まっすぐ)で…目をそらしてしまいたくなる。まるですべてを見透かされるような心地がしてくる、そんなまなざしから。
―――俺は、なにをしようとしている?
相手は、女でも人間でもないというのに。
―――きっと、この止まない雨のせいだ。
頭の中でそんな言い訳をしながら、雨の匂いを放つ金色の髪を左手ですくい取る。
何かの儀式のように、その様子を見守る玉藻。
―――止まない雨が…きっと。
言葉もなく、ただただ鼓膜をふるわすのは雨の音。
そして、全ての責任を押し付けられてもなお、変わらずに雨は静かに降り続けていた。
《終》