トリカゴ 1
サイケは、彼は、小さい頃から歌うことだけを許された子供だった。無邪気さで言われるままに歌い、褒められ、そして汚い大人たちの世界に閉じ込められてきた。最初は意味もわからず大人の駆け引きだとか、裏表だとか聞き流していたのに、いつの間にかそれらの言葉に恐怖を抱くようになっていた。
波江も知らないが、彼は純粋すぎた故に耳に聞こえるのは話す声だけではなかった。人間の、その本当に思っている声まで聞いてしまう特殊な人間だった。そこで、口から言われる言葉と、心の声との矛盾に恐ろしさを抱くようになり、人を信じることが少しずつ困難になっていた。
だからこそ人が多い場所へは行きたがらず、見知った人間とだけしか関わろうとしてこなかった。そして、少しでもその声から逃げれるようにとヘッドフォンを常に耳にあてるようにもなっていた。
最初は音楽を適当に流していたのに、だんだんと曲目が減り、やがて自分が歌う予定の歌だけどなり、いまや関わる人が波江ぐらいしかいないために電源は落とされているのが殆どだ。
一切社会から遠ざかろうとも、歌うことを強いる連中のその本音と建前のギャップに彼の純朴な心は蝕まれ、恐れていく。いっそ離れてしまおうかと悩んでいたが、それは歌うことを辞めることだとわかっていた。彼にとって歌うことが生きる目的だと幼いながらに自覚していたから、必死で強がり、堪えていた。
それがある日突然、無理が祟って彼は壊れてしまう。
俗世から離れ、必要最低限の教養を身につけていたにも関わらず、まるで幼い子供に戻ったような仕草や言動、そして頑なに他人を拒絶しきっていた。それは、まるであの汚い大人たちと同じ大人になりたくないと抵抗するかのように。
歌うことへは変わらずその実力を発揮していたのだが、やがて必要なことも喋ることもなく、ぼんやりと一日一日を過ごしてはじっとこの摩天楼の一角で息を潜めている。どんなに世間では彼の歌が評され、名声が叫ばれていても彼には聞こえていない。どれほど自分の歌が認知され、親しまれているのか彼はわからない。
「さ、できたわ。食べるときはいつものように暖めてちょうだいね」
ワンディッシュにまとめたハンバーグや付け添えの温野菜にパスタと、一見お子様ランチのような華やかな食事を、キッチンカウンターにセットする。そばに空のスープ皿やカトラリー類を置けばお腹が空いたときに彼は一人で用意して食べてくれる。食器は自動食洗機がキッチンにあるので片付けまで心配することはない。
波江が食事の用意を整え、帰る支度を始めようともサイケは変わらずソファーに座りまだ津軽の歌を聞き込んでいるようだった。ぼんやりと何もない天井を見つめているその目の奥では、一体何を考えているというのだろう。
「それじゃまた明日、おやすみなさい」
返事のない挨拶をいつもどおり投げかけて、やはり反応がないことを確認すると波江は颯爽と部屋を去る。殺風景な玄関には、波江の靴と彼女専用のスリッパ以外何もない。もちろん、サイケの靴すら見当たらない。必要のないものだからだ、彼はこの空間から一歩たりとも外に出ない。
見張りの警備員に会釈をし、すぐに波江を迎えにきたエレベーターに乗り込むと慣れない疲れがどっと押し寄せる。下手な振る舞いをしたら怒り出すのではないかという緊張にいつも苛まれながらの世話。それと、今日はいつもと違う顔を見せたことへの戸惑い。近い年齢でもあり、同じ天才の二人が何かしら通じ合えるのは音楽があるからこそ。音を愛し、歌に生きるサイケなら彼の才にその硬く閉ざした心を揺るがされたのかもしれない。
「一応、上には報告しなくちゃ、ね」
高速で地上へ戻るエレベーターの気圧に耳を痛めながら、暗くなりだした雑踏へと足を踏み込む。あまり気乗りしない報告だわ、と金に溺れている上の連中の顔ぶれを思い浮かべて嘆く。そして携帯を耳に押し当てると、そっと彼女はすでに頭上遥か上になった彼の牙城を見上げる。
世間から彼を守るためにあるあの城は、歌うことだけを強いるための鳥籠。
羽があることすら忘れた鳥は、いつまであそこで歌うのだろう。